張利鎮
張 利鎮 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 장이진(장리진) |
漢字: | 張利鎭 |
発音: |
チャン・イジン (チャン・リジン) |
日本語読み: | ちょう りちん |
ローマ字: | Chang Ri-Jin |
張 利鎮(チャン・イジン、1917年10月28日[1] - )は、朝鮮半島出身のバスケットボール選手・指導者。
1936年ベルリンオリンピックには日本代表として、1948年ロンドンオリンピックには韓国代表として出場している[1]。
経歴
[編集]平壌生まれ[1]。延禧専門学校(現在の延世大学校)のバスケットボール部で活躍[1]。1936年の全日本選手権では朝鮮代表(延禧専門学校)として出場し、優勝した[1]。1936年ベルリンオリンピックには日本代表選手の一人として出場した[1]。この時の日本代表チームには、張利鎮を含む3人の朝鮮人選手が参加していた。ほかの2人も全日本選手権優勝メンバーで、李性求(延禧専門学校OB)・廉殷鉉(延禧専門学校学生)である。
延禧専門学校卒業後は、立教大学経済学部に進学し、1941年に卒業した[2][注釈 1]。
1948年ロンドンオリンピックには、韓国代表として出場した[1]。1954年にはアジア選手権大会にも出場している[1]。
張利鎮は大韓民国海兵隊に入隊し、海兵隊にバスケットボール部を創設している[1]。バスケットボール部には、民間の有力選手を公務員として雇用し育成することで、韓国のバスケットボールをリードする役割が担わされた[1]。1955年、張利鎮がコーチを務める韓国海兵隊チームは、来韓したアメリカの大学選抜チームに対して勝利を収めた[1]。張利鎮の階級は、最終的に中佐にまで進んだ[1]。
1960年には韓国商業銀行[注釈 2]の女子バスケットボールチームのコーチを務めた[1]。1964年には第一銀行[注釈 3]の女子バスケットボールチームのコーチを務めた[1]。1967年の第5回女子バスケットボール世界選手権(プラハ)では韓国チームの監督を務め、銀メダルを獲得する[注釈 4]など[1]、名監督として定評があった。
1969年ごろにバスケットボール界を引退[3]。1974年に記された中央日報への寄稿では、韓国バスケットボール界の低迷や組織運営の問題などについて、意見を述べている[3]。その後、年度は不明ながら韓国外に移民したことが伝えられている[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- Chang Ri-Jin - Olympedia
- 빅토리농구팀을 격파한 장이진 감독 - R.O.K. Marine Corps 341