田中秀次郎
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
生年月日 | 1910年1月1日[1] |
身長 | 180cm (5 ft 11 in)[2] |
キャリア情報 | |
大学 | 東京帝国大学 |
代表歴 | |
キャップ | 日本 1936 |
田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日[1] - 没年不詳[注釈 1])は、昭和戦前期に活動した日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場し、バスケットボール日本代表チームの主将を務めた[4]。
経歴
[編集]旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属[4]。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した[4]。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において[4][注釈 2]、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた[4]。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる[4][3]。当時のあだ名は「デンチュー」であったという[4][3]。
1931年(昭和6年)、成蹊高校を卒業して東京帝国大学を受験するも失敗[6]。田中は、井上陽一(成蹊OB)、畑龍雄(武蔵高校OB)ら同様に浪人となったバスケットボールプレイヤーらとともに「籠人クラブ」というクラブチームを作って明治神宮競技大会に出場し、優勝した[6]。籠人クラブのメンバーは翌1932年(昭和7年)に東京帝国大学に合格し、バスケットボール部で活躍することとなった[6]。1934年には第10回極東選手権競技大会(マニラ)に出場した[1]。
東京帝国大学農学部を卒業後[2]、27歳で1936年ベルリンオリンピックの日本代表メンバーとして選ばれ[2]、主将を務めた[4]。この際の代表チームには、東京帝大生の中江孝男・鹿子木健日子も参加している[7][2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 歴史部「日本代表チームオリンピック史」『バスケットボールプラザ』第34号、NPO法人日本バスケットボール振興会、2007年 。
- 鹿子木基員「日本のバスケットの歴史のひとこま」『バスケットボールプラザ』第79号、NPO法人日本バスケットボール振興会、2018年 。
- 井上陽一「旧制高校籠球部全国制覇」『成蹊會誌』第80号、1995年 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Hidejiro Tanaka - Olympedia