コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

後藤宗印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後藤 宗印(ごとう そういん、天文14年(1545年)ごろ - 寛永4年11月24日1627年12月31日))は長崎町年寄を務めた人物[1][2][3][4][5]キリシタン朱印船貿易家でもあった。

佐賀武雄後藤貴明の一族で[6]、諱は貞之。当初は惣太郎という名で、後に庄左衛門と称する[2]。宗印と号し、洗礼名は登明(Thome)といった[1][2][7][8]元亀2年(1571年)、長崎に移住し、町人達の指導的な役割を担う頭人(とうにん)となる。文禄元年(1592年)、長崎代官寺沢広高により、頭人は町年寄と改称され、後藤宗印は引き続き町の統治に携わる[1][4]

町年寄を務めるかたわら、ブルネイシャム行きの朱印状を下付され、朱印船2隻を渡航させて海外貿易に従事した[1][2][9][10]

慶長5年(1600年)からキリシタン信仰手引書を金属活字の国字本で出版[2]。同年3月上旬に『おらしょの飜訳』、同年6月上旬に『どちりな・きりしたん』、同16年(1611年)5月上旬に『ひですの経』を刊行[1][2][11][12]。その社会的地位と財産でイエズス会を援助し、キリスト教徒の信心会「コンフラリア・デ・ミゼリコルディア(慈悲の信心会)」に加盟し慈善事業にも従事した[1][2][13]元和7年(1621年)3月26日付の長崎の教徒からローマ教皇に宛てた奉答文にも署名した[2]

寛永3年(1626年)6月、長崎住民に対する棄教命令が出され、長崎奉行水野守信により町民の棄教が進められた際には、これを拒んで長崎の町を出た。宗印と同じ町年寄の町田宗賀ジョアンも信仰を棄てず、同じく長崎の町を去った[14][15][16]

寛永4年(1627年)、80余歳で病死[1][2]晧台寺に埋葬される[2]

出島町人の1人、後藤庄左衛門は宗印の子である[17]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 「後藤宗印」『長崎県大百科事典』長崎新聞社、330頁
  2. ^ a b c d e f g h i j 「後藤宗印」『国史大辞典』4巻 吉川弘文館、915頁
  3. ^ 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』講談社選書メチエ、36-37頁
  4. ^ a b 『長崎県の歴史』 山川出版社、146-147頁
  5. ^ 原田博二著『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、113-114頁
  6. ^ 周防山口、あるいは京都出身とも言われる。
  7. ^ 外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社、120頁
  8. ^ トメ、またはトマス、トーマスと読む。
  9. ^ 『長崎県の歴史』山川出版社、148-150頁
  10. ^ 慶長11年(1606年)6月12日付でブルネイの、同12年12月24日にシャムへ渡航するための朱印状を下された。
  11. ^ 『国史大辞典』4巻 吉川弘文館 「キリシタン版」 (同書437頁)。
  12. ^ 印刷所は長崎の酒屋町に置かれた。
  13. ^ 「ミゼリコルディア跡」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』平凡社、130頁
  14. ^ 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』講談社選書メチエ、49頁
  15. ^ 『長崎県の歴史』山川出版社、174頁
  16. ^ 五野井隆史著「長崎住民に対する迫害」『日本キリスト教史』吉川弘文館、215頁
  17. ^ 片桐一男著『出島 異文化交流の舞台』集英社新書、28-31頁

参考文献

[編集]