御影町
みかげちょう 御影町 | |||
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廃止日 | 1950年4月1日 | ||
廃止理由 |
編入合併 住吉村、御影町、魚崎町 → 神戸市 | ||
現在の自治体 | 神戸市 | ||
廃止時点のデータ | |||
国 | 日本 | ||
地方 | 近畿地方 | ||
都道府県 | 兵庫県 | ||
郡 | 武庫郡 | ||
市町村コード | なし(導入前に廃止) | ||
面積 | 2.59 km2. | ||
総人口 |
14,656人 (『東灘区25年』、昭和25年10月1日) | ||
隣接自治体 | 神戸市、武庫郡住吉村 | ||
御影町役場 | |||
所在地 | 兵庫県武庫郡御影町御影字上中七百八番地ノ三 | ||
座標 | 北緯34度42分58秒 東経135度14分57秒 / 北緯34.71608度 東経135.24928度座標: 北緯34度42分58秒 東経135度14分57秒 / 北緯34.71608度 東経135.24928度 | ||
ウィキプロジェクト |
御影町(みかげちょう)は、兵庫県武庫郡に属した町であり、現在の町名では御影本町、御影中町、御影石町、御影塚町、御影、御影郡家、御影山手にあたる区域に存在した。
歴史
[編集]1889年(明治22年)に町村制に従い、御影村、郡家村、平野村、石屋村、東明村を合わせて成立した。当時は菟原郡所属であったが、1896年(明治29年)郡制施行に伴い同郡は武庫郡に編入された。
平野村の一部であった西平野は1875年(明治8年)に六甲村高羽に合したが、1929年(昭和4年)に六甲村が神戸市に併合される時に御影町へ再統合し、当初高羽と称していたが、1934年(昭和9年)1月に西平野と改称した。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風による暴風雨で倒壊および浸水家屋多数[1]。 1935年(昭和10年)8月29日、集中豪雨により大手筋、東朋の一部、魚崎町横屋方面に下水氾濫が発生[2]。 3年後の1938年(昭和13年)7月5日には、阪神大水害が発生。山麓の上深田池、泥池の堤防決壊、天神川の氾濫などで町内一帯が浸水。東明方面は床上・床下浸水約2000戸、倒壊家屋多数など大きな被害が生じた[3]。
現東灘区域2町3村及び精道村(現・芦屋市)の神戸市への合併計画は戦前より持ち上がっていたが、1950年、ついに神戸市に編入され、東灘区の一部となった。町有財産は御影財産区と郡家財産区の2つの財産区に引き継がれた。
行政
[編集]行政区分
[編集]御影町の大字・区・小字は1936年(昭和11年)当時、以下の通りである(字体、振り仮名の箇所および仮名遣いは『御影町誌』の原文ママ)。
大字 | 区 | 小字 |
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御影 | 東ノ町 | 濱東、上東、柳、申御田(さるごでん)、但馬口 |
弓ノ場町 | 濱弓場、上弓場、十ヶ坪(じふがつぼ)、宇柳(うやなぎ) | |
中ノ町 | 濱中、上中、坂地、掛田 | |
西ノ町 | 濱西、上西、一里塚、榿(はりのき)、掛田 | |
平野 | 篠坪(しのつぼ)、城ノ前、岸本、榎本、瀧ヶ鼻、平野、上ノ山、池ノ上、深田、御影山、師範 | |
石屋 | 石屋 | 八色岡(やいろをか)、御量(ごりよう)、左美也(さみや)、狹間(はざま)、工具地(くがいち)、旭ノ詰、三反田、公方公(くぼうこう)、喜寅、辰巳、磯ノ邊(いそのべ)、川西、具尻、イカヅカ |
東明 | 東明 | 二番、三番、四番、五番、六番、七番、八番 |
郡家 | 郡家 | 宇殿(うどの)、兼安、大藏(おほくら)、地藏元、下山田、上山田、馬場添(ばヽぞひ)、千本田(せんぼんだ)、寺ノ前、堂ノ裏、堂ノ前、下リ(くだり)、庄田(しようだ)、庄ノ元、垣内(かきうち)、石野、宮ノ裏、村田、弓弦羽ノ森 |
西平野 | 西平野 | 一ノ坪、伊賀塚(いかづか)、平野、東松本、西松本、大原、寅新田、大佛ヶ平、天神山、後裏、大谷、宮谷山、ゲシメ、イカツカ、平野村飛地 |
区は町村制第六十八條により処務便宜のために設けられたもので地名の呼称に関係はないが、当時の各地区の通称であるため、今日でもだんじり祭りの区域割りにみることができる。旧大字は東明を除いた4つが存続していたが、2008年11月11日に行われた住居表示実施に伴って御影1〜3丁目と御影郡家1〜2丁目に再編されたため消滅した。
町役場
[編集]御影町役場は当初、初代東灘区役所と同じ場所である御影町御影字上中七百八番地ノ三(現・神戸市東灘区御影本町6丁目5番7号、浜御影保育所のある場所)、元御影尋常小学校の一角にあった。1891年(明治24年)に御影町御影字上中七百十番地(後の御影診療所)に移った。
爾来、町民人口は膨れ上がり、3倍近くなった人口に対応すべく吏員も3倍以上となり、庁舎が狭隘極まりなくなった1923年(大正12年)、改築の発議が起こった。同年3月の町会において予め積み立てた新築準備金7万円と繰越金8万円の合わせて15万円を財源に、翌1924年(大正13年)、御影公会堂で知られた清水栄二の設計で近世ドイツ風を加味した鉄筋コンクリート建築の2階建て新庁舎が最初の町役場と同じ場所に完成した。
この庁舎は神戸市への合併後も東灘区役所として用いられ、1955年(昭和30年)に住吉東町に移転するまで区政の中心であった。移転後は区役所御影出張所として機能し、出張所が廃されてからは東灘建設事務所区画整理課が使用。1972年(昭和47年)からは財団法人兵庫県予防医学協会が使用。1978年(昭和53年)に老朽化で取り壊された。
歴代町長
[編集]人口動態
[編集]年次\大字 | 御影 | 石屋 | 東明 | 郡家 | 高羽 | 合計 | 一戸当り 平均人口 | ||||||
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人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | ||
明治22年 | 5,816 | 1,318 | 4.41 | ||||||||||
明治23年 | 5,807 | 1,304 | 4.45 | ||||||||||
明治24年 | 5,755 | 1,185 | 4.86 | ||||||||||
明治25年 | 5,596 | 1,203 | 4.65 | ||||||||||
明治26年 | 5,724 | 1,209 | 4.73 | ||||||||||
明治27年 | 5,936 | 1,155 | 5.14 | ||||||||||
明治28年 | 6,155 | 1,191 | 5.17 | ||||||||||
明治29年 | 6,373 | 1,184 | 5.38 | ||||||||||
明治30年 | 6,373 | 1,184 | 5.38 | ||||||||||
明治31年 | 6,110 | 1,164 | 5.25 | ||||||||||
明治32年 | 6,197 | 1,177 | 5.26 | ||||||||||
明治33年 | 6,309 | 1,180 | 5.35 | ||||||||||
明治34年 | 6,352 | 1,212 | 5.24 | ||||||||||
明治35年 | 6,521 | 1,248 | 5.23 | ||||||||||
明治36年 | 4,068 | 835 | 1,148 | 187 | 1,043 | 200 | 263 | 73 | 6,518 | 1,293 | 5.03 | ||
明治37年 | 4,149 | 852 | 1,180 | 195 | 1,083 | 208 | 279 | 77 | 6,691 | 1,331 | 5.02 | ||
明治38年 | 4,322 | 903 | 1,198 | 199 | 1,125 | 216 | 303 | 81 | 6,948 | 1,399 | 4.97 | ||
明治39年 | 4,378 | 932 | 1,222 | 204 | 1,176 | 233 | 400 | 105 | 7,176 | 1,473 | 4.19 | ||
明治40年 | 4,514 | 1,007 | 1,176 | 235 | 1,135 | 293 | 390 | 121 | 7,214 | 1,656 | 4.37 | ||
明治41年 | 4,513 | 1,051 | 1,182 | 248 | 1,235 | 279 | 537 | 136 | 7,467 | 1,714 | 4.36 | ||
明治42年 | 4,767 | 1,134 | 1,230 | 263 | 1,224 | 278 | 612 | 145 | 7,833 | 1,820 | 4.30 | ||
明治43年 | 5,138 | 1,218 | 1,349 | 291 | 1,213 | 290 | 676 | 152 | 8,376 | 1,951 | 4,29 | ||
明治44年 | 5,485 | 1,326 | 1,389 | 319 | 1,185 | 284 | 735 | 169 | 8,794 | 2,098 | 4.19 | ||
大正元年 | 5,870 | 1,431 | 1,490 | 341 | 1,242 | 394 | 734 | 177 | 9,326 | 2,243 | 4.16 | ||
大正2年 | 6,239 | 1,469 | 1,598 | 351 | 1,311 | 291 | 869 | 188 | 10,017 | 2,299 | 4.36 | ||
大正3年 | 6,324 | 1,468 | 1,610 | 342 | 1,315 | 274 | 919 | 188 | 10,168 | 2,272 | 4.48 | ||
大正4年 | 6,757 | 1,491 | 1,672 | 378 | 1,313 | 295 | 1,040 | 201 | 10,782 | 2,365 | 4.56 | ||
大正5年 | 7,138 | 1,551 | 1,739 | 395 | 1,401 | 317 | 1,104 | 203 | 11,382 | 2,466 | 4.62 | ||
大正6年 | 7,428 | 1,639 | 1,766 | 408 | 1,430 | 341 | 1,161 | 202 | 11,785 | 2,585 | 4.56 | ||
大正7年 | 8,043 | 1,716 | 1,947 | 470 | 1,543 | 379 | 1,142 | 211 | 12,677 | 2,776 | 4.57 | ||
大正8年 | 8,273 | 1,744 | 2,066 | 500 | 1,599 | 396 | 1,215 | 225 | 13,153 | 2,865 | 4.59 | ||
大正9年 | 8,573 | 1,813 | 2,045 | 532 | 1,505 | 392 | 1,185 | 233 | 13,308 | 2,970 | 4.48 | ||
大正10年 | 8,701 | 1,825 | 2,267 | 565 | 1,614 | 402 | 1,177 | 231 | 13,759 | 3,024 | 4.55 | ||
大正11年 | 8,901 | 1,868 | 2,424 | 616 | 1,727 | 437 | 1,227 | 261 | 14,279 | 3,182 | 4.49 | ||
大正12年 | 9,225 | 1,910 | 2,517 | 648 | 1,791 | 446 | 1,254 | 284 | 14,841 | 3,288 | 4.51 | ||
大正13年 | 9,414 | 2,005 | 2,746 | 679 | 1,817 | 457 | 1,280 | 289 | 15,311 | 3,430 | 4.46 | ||
大正14年 | 9,939 | 2,046 | 3,012 | 713 | 1,993 | 471 | 1,353 | 296 | 16,297 | 3,532 | 4.60 | ||
昭和元年 | 9,978 | 2,105 | 2,969 | 693 | 2,000 | 457 | 1,357 | 301 | 16,304 | 3,556 | 4.58 | ||
昭和2年 | 10,167 | 2,119 | 3,127 | 714 | 1,955 | 466 | 1,377 | 315 | 16,626 | 3,614 | 4.60 | ||
昭和3年 | 10,259 | 2,129 | 3,356 | 751 | 1,947 | 485 | 1,493 | 337 | 17,426 | 3,702 | 4.63 | ||
昭和4年 | 10,259 | 2,177 | 3,488 | 808 | 1,938 | 527 | 1,532 | 341 | 209 | 51 | 17,426 | 3,904 | 4.46 |
昭和5年 | 9,938 | 2,136 | 3,420 | 781 | 1,979 | 512 | 1,471 | 330 | 238 | 60 | 17,456 | 3,819 | 4.46 |
昭和6年 | 10,148 | 2,193 | 3,595 | 787 | 2,000 | 516 | 1,501 | 329 | 272 | 66 | 17,516 | 3,891 | 4.50 |
昭和7年 | 10,135 | 2,176 | 3,583 | 799 | 2,068 | 532 | 1,483 | 326 | 254 | 64 | 17,523 | 3,897 | 4.50 |
昭和8年 | 10,195 | 2,177 | 3,705 | 824 | 2,147 | 533 | 1,532 | 319 | 331 | 62 | 17,910 | 3,909 | 4.58 |
当時の様子
[編集]経済
[編集]産業
[編集]- 農業
農産物は、米、麦[4]。他に蔬菜があるが、自給すら尚不足する[4]。『大日本篤農家名鑑』によれば御影町の篤農家は、「殿村善四郎」のみである[5]。
- 商工業
酒造は古き歴史を有し、両京阪神地方を主とし、又全国に販路を有するに至る[4]。商業は酒造業を中心に発達[4]。靴、足袋、外箱、下駄、酒樽、石材等を製造する[4]。
- 高島廣三郎(石炭商)[6] - 住所は東明[6]。
- 高島茂三(砂糖菓子商)[6] - 住所は東明[6]。
- 高島正男(表具商)[7]
- 中田松兵衛(樽丸販売業) - 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[8]。
- 酒造業者
御影で酒醸造業を営む新居嘉右衛門、石田孫七郎、泉喜之介、泉仙介、嘉納治郎右衛門、河北俊治、木村喜兵衛、小網輿八郎、菅井角之助、安福武之助などは貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[8]。
- 新居嘉右衛門[4][8]
- 石田孫七郎[4][8]
- 泉喜之介[4][8]
- 泉仙介[4][8]
- 泉泰次郎[4]
- 植田保治[9] - 奈良県人で、住所は御影字申御田[9]。
- 八代目嘉納治郎右衛門(本嘉納商店社長)[8]
- 河北俊治[8]
- 木村喜兵衛[4][8]
- 木村康四郎[4][8]
- 菅井角之助[4][8]
- 高島太介(銘酒愉快印醸造元)[7]
- 安福武之助[8]
- 安福又四郎[4]
- 若林丑三郎[4]
- 若林常右衛門[4]
- 企業
家主
[編集]出身・ゆかりのある人物
[編集]政治・経済
[編集]- 乾新兵衛 - 旧乾邸、乾財閥当主
- 嘉納治五郎 - 「柔道の父」
- 伊藤萬助 (2代目)(伊藤萬会長)
- 大林芳郎(大手ゼネコン・大林組創業家・養子、同社社長)
- 二代高嶋平介(高嶋平介商店社長、味醂焼酎醸造並奈良漬製造業、御影町会議員)
- 三代高嶋平介(兵庫漬物社長)
- 村山龍平(朝日新聞創業者)
学術
[編集]- 永宮正治(理学博士、物理学者) - 東京大学教授等を経て、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構名誉教授
- 春成秀爾(文学博士、考古学者) - 国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授
- 和田悟朗(俳人、物理化学者) - 奈良女子大学名誉教授。
文化
[編集]芸能
[編集]脚注
[編集]- ^ 高潮の阪神沿道で三百人行方不明『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 神戸で山津波、阪神国道にまた濁流『大阪毎日新聞』昭和10年8月30日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p210-211)
- ^ 水源地が決壊、阪神沿線に濁流『東京朝日新聞』昭和13年7月6日夕刊(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p227-228)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』245-246頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月3日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』124頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月3日閲覧。
- ^ a b c d e 『日本紳士録 第26版』神戸たの部45 - 46頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月15日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第38版』神戸タの部105頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年8月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『貴族院多額納税者名鑑』81-101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月7日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第8版』ウ34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月21日閲覧。
- ^ 澤村修治、よこてけいこ『八木重吉のことば こころよ、では行っておいで』理論社、2013年、p.163
参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 交詢社編『日本紳士録 第26版』交詢社、1921年。
- 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 篠田皇民著『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』東京都民新聞社地方自治調査会、1932年。
- 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
- 編輯兼発行者 御影町長 玉木敬太郎『御影町誌』発行 御影町役場、1936年。
- 原田 健『東灘区25年』東灘区役所、1976年。