公同会運動
公同会運動(こうどうかいうんどう)は、琉球王国尚泰王の子である尚寅、尚順らが中心となって起こした運動[1]。復藩運動ともよばれる[2]。沖縄県知事を尚家による世襲制とすることを目指した[3]。
経緯
[編集]日清戦争の頃、沖縄では士族が親清反日の頑固党と親日の開化党に分かれて対立していた。しかし、日清戦争で清が敗北すると、清の援助を受けて琉球王国復国を企図していた運動の失敗が露呈する。その後頑固党と開化党の士族は歩調を合わせ、自らの特権を維持するために日本政府を頼るようになった[3]。なお、本土では秩禄処分がなされていたが、当時の沖縄では旧慣温存政策がとられており、士族に対する金禄の支給が行われていた[4]。
1895年、琉球新報の太田朝敷が「愛國協会」を結成するもすぐに解散すると、6月に「公同会」を組織した。太田のほか尚寅、尚順、伊江朝真、護得久朝惟、 高嶺朝教、豊見城盛和、知花朝章、伊是名朝睦が主要なメンバーであり、尚家による世襲の沖縄県政が目指された。公同会は沖縄各地を遊説し、1896年から1897年の間に有禄・無禄に関わらず首里・那覇の士族や地方の役人を中心に73,322人から署名を集め、1897年秋に請願団が上京し、日本政府に請願書を提出した[3][1]。
しかし、日本政府は資本主義による経済を沖縄まで押し広げることを図っていたため、封建的な特権の残っている沖縄の制度改革を検討しおり、「特権維持」の性格を持つ公同会による請願を認めなかった[5]。また、内務大臣の野村靖が運動に対して厳しい姿勢を取ったため[5]、この運動自体、大規模な展開とならずに自然消滅の方向に向かった[6]。
内容
[編集]いま、一般人民のためにだいじなことは、知識の啓発や制度の改革よりも、日本国民としての精神を養い、皇国のためにつくす国民の本分をじかくさせることである。そのためには、沖縄人民の精神を統一し、指導する中心にある尚家を世襲の知事にする特別制度を設けて、まず尚家に人心を統一し、尚家に人民をひきいさせて天皇につかえ、皇国のためにつくさせるようにしたい。
沖縄の士族にとっては、失われゆく自分たちの特権を守るために運動を展開したとされている[7]。なお、趣意書の内容は以下の通りである[8]。
一、法令の定むる所の程度に依り沖縄に特別の制度を施行する事
一、沖縄に長司を置き尚家より親任する事
一、長司は政府の監督を受け沖縄諸般の行政事務を総理する事
一、長司は法律命令の範囲内に於いて其管内に行政命令を発するを得る事
一、沖縄に監視官を常置し中央政府より派遣せらるる事
一、長司の下に事務官を置き法令の定める所の資格に遵い長司の奏薦により選任せられ又は長司自ら任免する事
一、議会を置き各地方より議員を選挙し法令の範囲に於いて公共諸般の事を議せしむる事
一、国庫に納むる租税は特に法律の定むる所の税率に據る事
一、沖縄に要する一切の費用は特に法律に定むる所の税率以内に於いて議会の決議を以って賦課徴収する事
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 国場幸太郎 著、新川明、鹿野政直 編『沖縄の歩み』岩波書店、2019年6月14日。ISBN 978-4-00-603313-2。
- 松永歩 (2009). “沖縄公同会運動と早熟な「自立」構想 : 「特別制度」の「自治」を手がかりに”. 政策科学 16 (2): 113-126. doi:10.34382/00004811.
- 林泉忠「「琉球抗日復国運動」再考 ―時期区分と歴史的位置付けを中心に―」『政策科学・国際関係論集』第6巻、2003年、144-88頁。