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志方町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
志方町
しかたちょう
日章旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 兵庫県
自治体 加古川市
旧自治体 志方町
面積
39.36km²
世帯数
3,817世帯
総人口
10,888
推計人口、2013年2月1日現在)
人口密度
276.63人/km²
隣接地区 東神吉町西神吉町加西市高砂市姫路市
加古川市役所志方町市民センター
北緯34度49分16.5秒 東経134度49分9.6秒 / 北緯34.821250度 東経134.819333度 / 34.821250; 134.819333座標: 北緯34度49分16.5秒 東経134度49分9.6秒 / 北緯34.821250度 東経134.819333度 / 34.821250; 134.819333
所在地 〒675-03
兵庫県加古川市志方町1758-3
志方町の位置(兵庫県内)
志方町
志方町
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志方町(しかたちょう)は、兵庫県加古川市の最北端に位置する地域である。本項では、かつて存在した印南郡志方町についても述べる。

概要

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当町の農業地帯
志方町大宗で撮影
  • 兵庫県播磨地方の南東部・加古川市の北西側に位置し、播磨臨海工業地帯の奥座敷と呼ばれており、山に囲まれた場所にある。[1]人口は約1万1000人であり、年々人口が減少している。[2]
  • 加古川市の町名のなかでは一番面積が広い。

志方の名の由来

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神功皇后が三韓征伐に行かれたとき、この地に上陸、今の宮山に上り、たくさんのシカが田野の間の群れあそびのをご覧になって「あなおもしり、鹿田とは名付けまし」と感嘆されたのにちなんで、鹿田と称するようになり、のち鹿田と改め、さらに「志し来りし方」の意味を以て志方になったものといわれている。[3]

地勢

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南は神吉地区(宝殿)、南西は高砂市、西は姫路市、北は加西市、東は平荘町に接している。その地勢は総面積の70%におよぶ山地が北及び東、西の三方向にそびえて南に向かって大きく口を開けた形である。山に囲まれた中央の平地は天神山、宮山、石打山によって東西に分断され、東の平地は帯状にして平坦、遠く加古川の西岸に及び、加古川の支流域と見てよく、西の平地は傾斜のゆるい台地が起伏して神吉平野に続いている。

志方町の範囲
方位および地名 距離 経度(東経) 緯度(北緯)
東端 野尻栗の木峠 10.7 km 134度52分44秒 34度49分56秒
西端 原荒神谷川南 134度45度58度 34度49分21秒
南端 横大路小山の西 7.4 km 134度48分18秒 34度47分47秒
北端 畑法華口 134度49分2秒 34度51分48秒
  • 土地の最高地 - 高御位山 (304.2m)
  • 土地の最低地 - 横大路大坪南 (5m)

歴史

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  • 当町に古墳群が散在することから、縄文時代から弥生時代にかけて集落が形成された[3]
  • 江戸時代は一橋徳川家の領地となった。細工所村に細工所陣屋が置かれ、玉田氏が代官職を世襲した。

沿革

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しかたちょう
志方町
志方町章
制定日不明
廃止日 1979年2月1日
廃止理由 編入合併
志方町加古川市
現在の自治体 加古川市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 兵庫県
印南郡
市町村コード 28401-7
面積 39.88 km2
総人口 13,987
国勢調査、1975年)
隣接自治体 姫路市加古川市高砂市加西市
町の木 マツ
町の花 サツキ
志方町役場
所在地 675-03
兵庫県印南郡志方町志方町1074-1
座標 北緯34度49分15.9秒 東経134度49分9.8秒 / 北緯34.821083度 東経134.819389度 / 34.821083; 134.819389 (志方町)
ウィキプロジェクト
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1953年10月に町村合併促進法が施行(昭和の大合併)されると、1954年3月に兵庫県加印地方事務所は管内を6ブロックに分けた合併案を示す。このうち志方ブロック(志方村東志方村西志方村)については合併にあたっての支障が他ブロックより少なく、同年8月に6ブロックの中で最も早く合併を果たした。

昭和40年代に入ると高砂市と志方町との合併論議が高まる。1968年(昭和43年)11月に任意の合併協議会が発足し、1969年(昭和44年)10月に高砂市は合併を前提とした「高砂市建設計画案」を発表、将来の山陽自動車道開通等を見据えて「工業優先から生活中心の政策」「生命を大切にする都市政策」などの見出しを掲げた。1970年(昭和45年)には法定合併協議会が成立し、新市建設計画案を承認した。しかし巨額の支出を伴う計画案は志方町民の支持を得られず、1971年(昭和46年)の志方町長選・町議選で体制が合併慎重派に代わったため、高砂市との合併の話は流れてしまった[4]

志方町時代

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加古川市時代

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  • 1983年(昭和58年)3月 - 加古川市中央消防署志方分署開所。
  • 2002年平成14年)4月1日 - 保育園・幼稚園が一体となった(幼保一体化施設)しかた子ども園が開園。

行政

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  • 町長 - 広瀬義一[2]

町木・町花

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当町の3分の2は山地であり、アカマツクロマツの生育地であることから制定された。

当町にツツジが生育していることから制定された。

経済

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農業

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  • 播磨地方の穀倉地帯として米作・麦作・花卉栽培・イチジク栽培が盛んである。また、綿作も行っている。[5]

工業

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  • 靴下 - 「志方靴下」と呼ばれており、加古川市の靴下製造の歴史は100年以上あり、明治初年に印南郡志方町(現、加古川市志方町)の住民が上海から手廻しの靴下編立機を持ち帰り、製造を始めたことにより靴下の製造が始まった。大正初期に半自動式編立機、さらに1924年(大正13年)には自動編立機が輸入されるなど技術革新が進み、また、1923年(大正12年)の関東大震災による情勢変化などにより、播磨の産地規模は急速に拡大し、東南アジアや中国にも輸出されるようになった。1953年(昭和28年)に兵庫県靴下工業組合(高砂市)が設立された。また、ナイロンを始めとする合成繊維の開発により、設備の近代化、技術水準の高度化が進んでいる。現在、コンピューター編立機や特化した設備で特殊素材の使用へと移行している。東南アジアなどからの輸入の増加に対して、付加価値のある商品開発へ移行している[6][5]
  • タオル

地域

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施設

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  • 加古川食肉センター[7] - 家畜の受け入れ搬入から、と畜解体を行い、枝肉出荷まで行われている施設である[8]

教育

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子ども園

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  • しかた幼稚園(しかた子ども園)

小学校

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中学校

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出身人物

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政治・経済

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文化

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学者

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その他

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歴史上の人物

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史跡

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  • 面方谷古墳
  • 天神山古墳群
  • 志方城
  • 中道子山城
  • 細工所陣屋
  • 三島由紀夫先生慰霊の碑 - 三島由紀夫の本籍地・志方町にある。子授地蔵尊として知られる「玉の緒地蔵尊」がまつられた場所にある石碑[12]

寺社

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公共施設

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イベント

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  • コスモスまつり(毎年10月ごろ)

脚注

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  1. ^ 志方町勢要覧1975 目次
  2. ^ a b c d 志方町勢要覧1975 p1
  3. ^ a b 志方町勢要覧1975 p2
  4. ^ 「高砂市史」p.789~790
  5. ^ a b 志方町勢要覧1975 p14
  6. ^ 加古川市の靴下生産の歴史(株式会社ミヤシタ)
  7. ^ 施設概要”. 公益財団法人加古川食肉公社. 2024年5月9日閲覧。
  8. ^ 施設概要”. 加古川中央畜産荷受株式会社. 2024年5月9日閲覧。
  9. ^ 『日本現今人名辞典』ぬ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月20日閲覧。
  10. ^ 『人事興信録 第6版』ぬ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月20日閲覧。
  11. ^ a b 『日本紳士名鑑』318 - 319頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月17日閲覧。
  12. ^ a b 三島由紀夫が描いた関西 残された1本の松”. 産経新聞 (2020年10月15日). 2024年3月21日閲覧。

参考文献

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  • 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 須藤常編『日本紳士名鑑』日本紳士名鑑発行所、1912年。
  • 志方町編纂委員会『志方町誌』志方町役場、1969年。 
  • 志方町総務部企画課 編『志方町勢要覧1975』(初版第1刷)志方町、1975年7月。ISBN 4095263113 
  • 高砂市史編さん専門委員会編集「高砂市史」第3巻通史編近現代 平成26年3月31日発行

関連項目

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外部リンク

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