志熊三郎
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志熊 三郎[1](しくま さぶろう[2][3]、1895年〈明治28年〉2月28日[4] - 1978年〈昭和53年[5]〉)は、日本の検察官、弁護士、公証人[2][6]。
経歴
[編集]広島県広島市出身[7][8]。志熊直人の息子[注 1]。広島市段原町(現・比治山町)の比治山神社社掌・志熊三郎が1915年に亡くなり、当主の三郎がその後を継承する[1]。
高等師範学校附属中学校を経て[1]、1916年に第三高等学校大学予科を卒業[9]、1919年に東京帝国大学法学部英法科を卒業[4][10]。三菱造船に入る[7]。
1922年、司法官試補に任ぜられる[4]。1924年、検事に任ぜられる[4]。1925年、釧路地方裁判所検事に補せられる[4]。1929年、台湾総督府検察官に任ぜられ、台北地方法院検察官に補せられる[4]。台中地方法院検察官、台南地方法院嘉義支部上席検察官、高雄地方法院検察官長を経て1943年、新竹地方院検察官[10]。
1946年、弁護士を開業[2][3]。1948年、広島高検検事に任官[2][3]。1955年、退官、公証人となる[2][3]。
人物
[編集]趣味はゴルフ[2]、庭球、散歩、囲碁[3][6][7]。宗教は神道[2][3][7][8]。住所は広島県尾道市十四日町[2]、同市長江2丁目[3]、同市土堂町[6]。
家族・親族
[編集]- 志熊家
- 親戚
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『広島県紳士名鑑』190頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第24版 上』し6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第25版 上』し6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 『台湾人士鑑』161頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月9日閲覧。
- ^ 『自由と正義 No.13 Vol.29』89頁。
- ^ a b c d 『日本紳士録 第52版』し83頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第16版 上』し2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月21日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第18版 上』し3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月30日閲覧。
- ^ 『第三高等学校一覧 大正8年9月起大正9年8月止』大正五年卒業生317頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月21日閲覧。
- ^ a b 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』台湾31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正8年9月起大正9年8月止』第三高等学校、1912 - 1926年。
- 『広島県紳士名鑑』国民教育普及社、1917年。
- 台湾新民報社編『台湾人士鑑』台湾新民報社、1937年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第16版 上』人事興信所、1951年。
- 人事興信所編『人事興信録 第18版 上』人事興信所、1955年。
- 藤井麟太郎『日本紳士録 第52版』交詢社、1960年。
- 人事興信所編『人事興信録 第24版 上』人事興信所、1968年。
- 人事興信所編『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年。
- 『自由と正義 No.13 Vol.29』日本弁護士連合会、1978年。