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志道元信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
志道元信
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文21年9月8日1552年9月26日
別名 通称:次郎四郎[1]
主君 毛利元就隆元
氏族 大江姓毛利氏庶流坂氏志道氏[2]
父母 父:志道広良[3]
兄弟 大蔵少輔[3]、女(赤屋豊将の母)[3]
女(秋山某室)[3]守熊実相寺住職[1]
女(桂元澄室)[1]口羽通良[1]就良[1]
坂元貞[1]、女(田緒某室)[1]、女(福原某室)[1]元信元親[1]
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志道 元信(しじ もとのぶ)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。毛利元就隆元父子を支えた重臣である志道広良の六男[3]。兄に志道大蔵少輔守熊実相寺住職)、口羽通良志道就良坂元貞がおり、弟に志道元親がいる。

生涯

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毛利氏の執政を務めて毛利元就隆元父子を支えた重臣である志道広良の六男として生まれる[1]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて毛利元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文において、28番目に「志道次郎四郎元信」と署名している[注釈 1][4]

天文21年(1552年)、備後国の尼子方勢力を駆逐するための毛利元就の備後攻め[5]に元信も従軍[6]。同年7月23日宮光寄が拠る志川滝山城を攻略し、宮氏は備中方面に逃れた[5]が、この時の戦いで元信家臣の小河内又四郎が槍傷を負っている[7]

志川滝山城を攻略した元就は吉川元春と共に備中国へと進軍し、尼子方に寝返った庄為資猿掛城を攻撃したが、同年9月8日に猿掛城から出陣した庄為資の攻撃によって毛利軍は敗北し、元信は桂新五左衛門臼井藤次郎らと共に戦死した[8]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 150.
  2. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1980, pp. 149–150.
  3. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 149.
  4. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  5. ^ a b 山本浩樹 2007, p. 74.
  6. ^ 畑和良 2010, pp. 23–24.
  7. ^ 『毛利家文書』第293号、天文21年(1552年)8月28日付け、陶(晴賢)殿宛て毛利備中守隆元・毛利右馬頭元就連署軍忠状。
  8. ^ 畑和良 2010, p. 23.

参考文献

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  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。全国書誌番号:21255499 
  • 畑和良「猿掛城合戦と毛利氏の備中国経略」倉敷市総務局総務部市史編さん室編『倉敷の歴史 第20号』2010年3月、17-34頁。