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口羽通良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
口羽通良
口羽刑部少輔通良
毛利博物館蔵「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年
死没 天正10年7月28日[1]1582年8月16日
改名 志道才徳丸(幼名)→志道通良→口羽通良
別名 通称:善九郎[2]
墓所 宗林寺島根県邑智郡邑南町
官位 刑部大輔[2]下野守[2]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓毛利氏庶流志道氏
→大江姓志道氏庶流口羽氏
父母 父:志道広良[3]
兄弟 志道大蔵少輔[3]、女(赤屋豊将の母)[3]
女(秋山氏室)[3]守熊実相寺住職)[4]
女(桂元澄室)[4]通良志道就良[4]
坂元貞[4]、女(田緒氏室)[4]、女(福原氏室)[4]志道元信[4]志道元親[4]
正室:福原広俊の娘[1]
女(志道元保室)[1]、女(南方就由室)[1]
広通[1]春良[1]、女(井原元良室)[1]
女(郡山長屋丸局)[1]、女(栗原勝右衛門室)[1]、女(赤穴幸清室)[1]、女(宍戸元続継室)[5]元可[5]
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口羽 通良(くちば みちよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の重臣。父は毛利氏の執政を務めた志道広良毛利元就隆元輝元の三代に仕え、輝元の代には吉川元春小早川隆景福原貞俊と共に御四人の一人に数えられる。初めは「志道」の名字を名乗ったが、後に石見国邑智郡口羽村[注釈 1]を領し、琵琶甲城を居城としたことから、在名を取って「口羽」を名字とした[6]

生涯

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永正10年(1513年)、志道広良の子として生まれ[注釈 2]毛利元就に古くから仕える。

天文3年(1534年)に塩冶興久の処遇に関して尼子氏との関係が悪化した備後山内直通に接近することを元就に命じられて山内氏と親交を深めた。この時、偏諱をくれるよう山内直通へ再三願い出て「通」の字を与えられ、名を「通良」と改めた[注釈 3][8]

天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いにおいては、父・広良や桂元澄らと共に郡山城で元就の幕僚として参加している[9]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、29番目に「志道刑部太輔通良」と署名している[注釈 4][10]

弘治3年(1557年12月2日防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、3番目に「志道刑部太輔」と署名する[11]。また、同年7月1日に父・広良が死去。志道氏家督は甥の志道元保が継いでいたが、この頃から通良も抜擢されている[6]

永禄5年(1562年)に毛利氏に帰属した赤穴盛清の重臣・来嶋清行起請文を交わし、元亀元年(1570年)には出雲の湯原氏軍忠吉川元春と共に毛利元就と毛利輝元に上申する等、主に吉川元春を補佐して山陰地方の制圧やその統治等を任された[6]

元亀2年(1571年6月14日に元就が死去した後は輝元を補佐し、元春や小早川隆景福原貞俊と共に御四人体制の一角を担った[6]。行政手腕に優れていたため、名家老とも謳われている。元亀3年(1572年)の毛利氏掟の制定では、輝元から命じられた条々を御四人の連名で年寄衆と奉行衆に下している[6]

天正10年(1582年7月28日に死去[6]。享年70[6]

肖像画が島根県邑智郡邑南町下口羽の吉祥山延命寺に残っている。また、宗林寺の墓を移設する際に古銭や刀等が出土している。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の島根県邑智郡邑南町上口羽・下口羽。
  2. ^ 口羽通良の出自を、志道元良の次男で志道広良の弟とする説もある[6][7]が、志道元良は通良が生まれる前の明応9年(1500年7月14日に死去している[3]
  3. ^ 「通良」と改名する前のは不明。
  4. ^ この起請文においても記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊志道元保坂広昌(元貞)門田元久秋広就正和智元俊福原就房桂元忠桂就延兼重元宣渡辺長赤川就秀国司元相粟屋元真粟屋元親粟屋元秀赤川元秀飯田元泰粟屋元宗井上元在(元光)赤川元保光永元方長屋千太郎福原元正志道元親桂元親坂保良(元祐)志道元信志道通良(口羽通良)桂元澄敷名元範南方元次内藤元種秋山元継三田元親井原元造

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 252.
  2. ^ a b c 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 150,252.
  3. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 149.
  4. ^ a b c d e f g h 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 150.
  5. ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 253.
  6. ^ a b c d e f g h 舘鼻誠 1996, p. 259.
  7. ^ 『閥閲録』巻32「口羽衛士」、口羽氏系譜。
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 87.
  9. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 99.
  10. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  11. ^ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店1984年11月。
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」 河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年、243-286頁。
  • 萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」