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渡辺長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渡辺長
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文3年(1534年[注釈 1]
死没 慶長17年2月24日1612年3月26日
改名 虎法師(幼名)→長
別名 小三郎(通称
墓所 渡辺飛騨守墓所(山口県岩国市錦町広瀬
官位 左衛門大夫石見守従五位下飛騨守
主君 毛利元就輝元
長州藩
氏族 嵯峨源氏融流渡辺氏
父母 父:渡辺通、母:烏森[注釈 2]の娘
光永元方の娘
宍戸元重小五郎四兵衛
女(宍戸喜三郎室)、女(和智元実室)
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渡辺 長(わたなべ はじめ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で長州藩士。毛利十八将の一人。官位従五位下飛騨守

生涯

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渡辺氏源頼光の家臣・渡辺綱の後裔で、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。

天文3年(1534年)、毛利氏の譜代家臣である渡辺通の嫡男として誕生。天文12年(1543年)、大内義隆による第一次月山富田城の戦いで父・通が戦死すると跡を継ぎ、父と同様毛利元就に仕えた。

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、11番目に「渡邊小三郎長」と署名している[注釈 3][1]

元服前の天文17年(1548年)に山名理興の拠る備後国神辺城(村尾城)への攻撃(神辺合戦)において槍働きで武功を挙げたのを始めとして、天文20年(1551年)の安芸国高屋頭崎城平賀隆保との合戦、天文21年(1552年)の備後志川滝山城での宮氏との合戦、天文24年(1555年)の厳島の戦い永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦い等で活躍した。

これらの活躍により、天文11年(1542年)に安芸豊島定末名、天文19年(1550年)に安芸下麻原300貫の代官職、弘治3年(1557年)に安芸山里・九嶋の内の30貫と津田の内の20貫、天正13年(1585年)に周防国玖珂郡三瀬川村[注釈 4]等を宛行われた。

元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、その孫である毛利輝元に仕える。天正14年(1586年)の九州平定に従軍し、天正16年(1588年)には輝元に従って上洛して、豊臣秀吉から豊臣姓と従五位下・飛騨守の官位を賜った[注釈 5]文禄2年(1593年3月3日三分一孫作に「長」の偏諱を与えている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防国長門国の2ヶ国へ減封されると長も周防国に移り住み、周防国玖珂郡山代庄広瀬村の2468石2斗余、玖珂郡湯野村208石4斗余、長門国厚東郡高泊村246石7斗余の合計2923石4斗余の地を与えられ、広瀬村にある朝霞城を居城とした。

慶長17年(1612年2月24日に死去。享年79。嫡男のが跡を継ぎ、同年8月16日には元が知行する周防国玖珂郡河山村の1353石余、玖珂郡広瀬村の648石4斗余に父・長の旧領が加わり、合わせて4924石9斗余の地が与えられることとなる。

なお、三男の小五郎は天正12年(1584年)に伊予国恵良で戦死し、四男の四兵衛文禄・慶長の役において戦死している。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 慶長17年(1612年)2月に79歳で没したとされる為、生年は逆算して天文3年(1534年)と推定される。
  2. ^ 山内氏の乳母。夫は備後国岡氏
  3. ^ この起請文においても記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊志道元保坂広昌(元貞)門田元久秋広就正和智元俊福原就房桂元忠桂就延兼重元宣渡辺長赤川就秀国司元相粟屋元真粟屋元親粟屋元秀赤川元秀飯田元泰粟屋元宗井上元在(元光)赤川元保光永元方長屋千太郎福原元正志道元親桂元親坂保良(元祐)志道元信志道通良(口羽通良)桂元澄敷名元範南方元次内藤元種秋山元継三田元親井原元造
  4. ^ 現在の山口県岩国市周東町三瀬川。
  5. ^ 口宣案上卿大納言日野輝資奉者蔵人頭左近衛権中将中山慶親

出典

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  1. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。

出典

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