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忠望王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

忠望王(ただもちおう、生没年不詳)は、平安時代中期の皇族式部卿是忠親王の子。官位従四位上神祇伯

経歴

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内膳正を経て、朱雀朝から村上朝にかけて神祇伯を務め、伊予権守も兼ねる。位階従四位上に至った。承平7年(937年)「神祇伯忠望王等解状」を太政官に提出し、諸国司位禄を給付しようとしないため、官人らが困窮に喘いでいる問題を訴えている[1]。また、天暦10年(956年)忠望王は勅勘を被っていたが、6月の月次祭の際、五位以上の神祇大副/少副がおらず神祇伯の代官を立てられなかったことから、六位以下の神祇官人が神事に参加しない事態が発生。そこで、忠望王は勅勘を免じられて月次祭に参仕した[2]応和元年(961年)伊勢神宮祈祷使を務めている。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『政事要略』巻第27「年中行事11月3」所引承平7年10月16日付太政官符
  2. ^ 『小右記』長元4年9月5日条
  3. ^ 『尊卑分脈』
  4. ^ 『西宮記』巻6,12月11日「月次神今食」
  5. ^ 『本朝世紀』
  6. ^ 『九暦』
  7. ^ 『伊勢勅使部類記』「伊勢勅使雑例」宝殿不被開給例

参考文献

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