念林老人
念林 老人(ねんりん の おきな、生没年不詳 )は、奈良時代の人物。経師。姓はなし。官位は奉写一切経司主典・正八位上。
出自
[編集]念林氏は出自は未詳で、渡来系氏族と考えられている。8世紀前半から後半にかけて皇后宮職写経所・東大寺写経所などに出仕し、経師として経典の書写などに従事したものが多い。この老人のほかにも、神護景雲4年(770年)6月には近親者と思われる念林宅成が経師として貢進されている。
経歴
[編集]聖武朝の天平11年(733年)4月、写経所に服仕して、布施銭を充てられている[1]、天平感宝元年(743年)閏5月、千部法花経を充てられ[2]、同年6月、写経検定帳に見え[3]、また上紙注文にも見える[4]。
淳仁朝の天平宝字4年(760年)9月、奉写一切経所より請暇(臨時の休暇を申請すること)の限がすぎて召され[5]、同5年(761年)4月、上所より布施布を給されて[6]、同6年(762年)閏12月[7]よりより同7年(763年)2月[8]の間に、二部大般若経本充帳に見え、同7年4月、七百巻経本充帳にも見え[9]、同経料筆直を充てられ[10]、また仁王経を写し、綿を充てられて[11]、同8年(764年)9月、浄衣、筆墨直を充てられている[12]。
称徳朝の神護景雲2年(768年)閏6月[13]、8月[14]、9月[15]、11月[16]、12月[17]はいずれも奉写一切経司移に主典・正八位上として署している。同4年(770年)6月、一族の念林宅成を経師として貢進している[18][19]。
光仁朝の宝亀3年(772年)3月、墨を充てられ[20]、また奉写大乗経律論目録に名前が見え[21]、以後、奉写一切経所に服仕している。4月、借銭300文を借り[22]、8月、さらに1貫文を借りている[22]。9月、さらに120文を借り、時に番上(非常勤)と記されている[23]。12月、桑内真大宅の被進納の証と見え[24]、同4年(773年)3月、奉写一切経所より布施布を給せられ[25]、6月[26]、9月[27]、10月[28]、この年[29]ともに同様に記されている。
同6年(775年)12月の丸部人主の手実(個人が実情を申告した文書)に「佐官」とあり[30]、年月は未詳であるが、月借銭500文を借り、「主典」と記されている[31]。また、造東大寺司解に散位従六位下と記されているが、抹消されてもいる[32]。
奉写一切経所における写経のことは、以下の通りである。
- 宝亀3年(772年)4月[33]。5月[34]。6月[35]。7月[36]。8月[37]。9月[38]。10月[39]。11月[40]。この年[41]。
- 宝亀4年(773年)2月[42]。5月[43]。6月[44]。7月[45]。10月[46]。閏11月[47]。12月[48]。
- 宝亀5年(774年)2月[49]。3月[50]。10月[51]。11月[52]。
その手実については、
- 宝亀3年(772年)4月[53]。5月[54]。6月[55]。7月[56]。8月[57]。9月[58]。10月[59]。11月[60]。
- 宝亀4年(773年)2月[61]。3月[62]。4月[63]。5月[64]。6月[65]。7月[66]。9月[67]。10月[68]。
- 宝亀5年(774年)2月[49]。3月[69]。5月[70]。7月[71]。9月[72]。10月[73]。11月[74]。
- 宝亀6年(775年)正月[75]・2月[76]。4月[77]。6月[78]。
に現れている。
官歴
[編集]『大日本古文書』による
- 天平11年(733年)4月:見写経所服仕
- 天平宝字4年(760年)9月:見奉写一切経所服仕
- 神護景雲2年(768年)閏6月:見正八位上・奉写一切経司主典
- 宝亀3年(772年)3月:見奉写一切経所服仕
- 宝亀6年(775年)12月:見佐官
脚注
[編集]- ^ 『大日本古文書』巻二 - 162頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 230頁
- ^ 『大日本古文書』巻三 - 249頁
- ^ 『大日本古文書』巻十一 - 106頁
- ^ 『大日本古文書』巻十四 - 444頁
- ^ 『大日本古文書』巻十五 - 114頁
- ^ 『大日本古文書』巻十六 - 165頁・166頁
- ^ 『大日本古文書』巻十六 - 108頁
- ^ 『大日本古文書』巻十六 - 368頁・369頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 415頁・421頁
- ^ 『大日本古文書』巻十六 - 430頁
- ^ 『大日本古文書』巻十六 - 524頁・532頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 697頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 698頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 699頁、巻十七 - 85頁
- ^ 『大日本古文書』巻十七 - 141頁
- ^ 『大日本古文書』巻十七 - 135頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻533頁
- ^ 『大日本古文書』巻十七 - 198頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 257頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 2頁・12頁
- ^ a b 『大日本古文書』巻十九 - 310頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 313頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 501頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 488頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 525頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 196頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 545頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 208頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿三 - 521頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 123頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿三 - 172頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 210頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 211頁、巻十九 - 597頁、巻廿 - 65頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 262頁、巻廿 - 66頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 213頁、巻廿一 - 3頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 214頁、巻廿一 - 49頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 266頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 217頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 270頁、巻十九 - 498頁・507頁・512頁、巻廿 - 68頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 14頁・34頁・36頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 220頁、巻廿 - 524頁・528頁・529頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 516頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 532頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 406頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 216頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 217頁
- ^ 『大日本古文書』巻六 - 558頁
- ^ a b 『大日本古文書』巻廿二 - 118頁・262頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 411頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 426頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 427頁、巻廿三 - 1708頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 264頁・558頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 458頁・468頁、巻廿 - 33頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 395頁・443頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 428頁、巻廿 - 5頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 159頁・221頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 372頁、巻廿 - 200頁・237頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 114頁・123頁・184頁・241頁・306頁
- ^ 『大日本古文書』巻十九 - 357頁、巻廿 - 92頁・99頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 459頁・491頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 249頁・323頁・385頁・400頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 403頁、巻廿一 - 293頁・363頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 385頁・391頁、廿一 - 344頁・467頁・581頁・589頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿 - 350頁、巻廿二 - 4頁・7頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 453頁・553頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿一 - 328頁・436頁、巻廿二 - 159頁・174頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 142頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 96頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 61頁・236頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 382頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 446頁・477頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 438頁・561頁、巻廿三 - 53頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 438頁・561頁、巻廿三 - 38頁・95頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 553頁、巻廿三 - 19頁・72頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿二 - 551頁、巻廿三 - 7頁・56頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿三 - 328頁・405頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿三 - 375頁・385頁・389頁・503頁・509頁