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感恩講

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

感恩講(かんのんこう)は、1829年文政12年)に久保田藩久保田町で発祥した有志らの寄付による備荒組織であり多くの窮民や孤児を救った慈善団体日本におけるNPO活動の先駆け的存在にあたる。

概要

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久保田藩の御用達商人であった那波家は代々那波三郎右衛門を襲名し、転封以前の常陸国の時代から佐竹家とは縁が深い商家であった。この九代目那波三郎右衛門である那波祐生は、1819年文政2年)に藩の絹方支配人に登用され、さらに那波家でも絹織業を興し低迷していた家業を立て直し財を築くことに成功する。

この頃度重なる凶作と領民の飢餓に悩んでいた藩主佐竹義厚は貧民救済とその資金運用を民間に委託することができないかと考え、1827年(文政10年)にその計画を祐生に要請した。これを受けて祐生は「三郎右衛門は幼いころ困窮にあったため生涯を窮民の為に尽くしたい」と伝え自ら10年で400両の献金をすることを宣言した。さらに後日にはこの400両を一括で献金し、この金で農地を購入しそこから得られた収入を窮民救済をしながら飢饉や災害の年に備えて貯蓄をするという運用計画を提出した。さらに町人たちに働きかけて191名の加入者による金2000両銀10貫目を集め、これを財政基盤とした。藩は献金から230石の知行地を購入、1829年(文政12年)に講名を「感恩講」と名付け「花散里」の紋章を下賜し、感恩講の運営が始まった。

1830年天保元年)には備蓄米を保存する蔵の建築を本町(現在の秋田市大町)で開始するが、その際にも町民たちは献金や資材などを寄付し、あるいは進んで労力奉仕をした。また藩も土地や資材を提供し、これによって翌年に当初の予算の半分で二棟の蔵が完成させることができ籾米の貯蔵が始まった。このとき感恩講を藩に寄付しようとする動きもあったが、町奉行江間郡兵衛の「上下の関係なく平等の立場で、町民相互が助け合い、守り合っていく形に」[1]という助言があり、町民による財産管理と運営が改めて決められた。

この直後の1833年天保4年)、天保の大飢饉がおこり東北地方では飢餓が蔓延した。発足間もない感恩講では祐生たちが藩からの支援も受けながらさらなる私財を投じて救済活動にあたり、2年間で延べ43万人に対して施米をし多くの人命を救い、衣類や薬代、葬式代を与えた。救恤対象地区では,餓死者は0人と記録さ れている[2]。また同時期疫病(腸チフス)によって多くの孤児が発生したため感恩講は孤児を保護して里親を探し給付金を与えるなどの活動も行った。藩は感恩講の功績を讃え、今後も活動に励むようにと感恩講の知行地を歩合なしとすることを決めた。

1837年天保8年)、祐生は最後まで救民活動に勤め感恩講が領内に広まることを願いながら66歳で没する。那波家の事業と感恩講は子の祐章に引継がれた。1830年天保元年)に土崎で土崎感恩講が発足したのを皮切りにこの活動は藩内の各地に広まり、各地で町人や豪農が寄付金を出し合い、明治期までに秋田県内の感恩講の数は19箇所にも増えていった。各感恩講はその土地の地名を付けた名前になり、祐生が作り出した感恩講は「秋田感恩講」とも呼ばれる。

1873年(明治6年)の地租改正では感恩講の知行地は藩の財産とみなされ没収されてしまう。しかし新政府に事業について訴えることで数年後には明治政府から資金を得て新たな田地を購入して救済事業が無事継続された。秋田感恩講が救済した人員は、1909年(明治42年)の時点で403万人を超える。

感恩講は明治から大正にかけて皇族や役人などが視察に訪れるなど国にも高く評価され。また明治時代に帝国法律顧問だったボアソナードがその活動を賞賛するなど国際的にも画期的な組織として評価を受けた[3]。非営利組織研究者であるジョンズ・ホプキンス大学のレスター・サラモンは日本最古の近代的な非営利組織として感恩講を挙げている。

明治以降の感恩講は時代の変化に伴い各地で一般財団法人社会福祉法人として児童保育園を設立し、児童福祉活動を展開するなどした。

1952年(昭和27年)に、秋田市の感恩講は、社会福祉法人感恩講として法人化され、同法人が運営する児童養護施設である「児童保育院」として現在に至っている。

秋田市出身の体操選手にして金メダリスト遠藤幸雄は母親を亡くしたあと、秋田感恩講の施設で支援を受けたことから感謝の気持ちを忘れず、晩年まで感恩講への寄付を続けた。

歴史

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  • 1772年安永元年):那波祐生誕生[4]
  • 1827年文政10年):祐生が藩に救民計画を伝える。
  • 1829年(文政12年):感恩講の運営を開始。初の施米が実施される
  • 1830年天保元年):備蓄蔵の建設に着手
  • 1833年(天保4年):天保の大飢饉で多数の窮民を救済する
  • 1837年(天保8年):祐生66歳で死去
  • 1873年明治6年):地租改正で農地が没収される
  • 1947年昭和22年):農地改革により保有農地が解放される
  • 1952年(昭和27年):秋田感恩講が社会福祉法人になる
  • 1976年(昭和51年):感恩講街区公園に感恩講発祥之地碑が完成

史跡

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感恩講の農地は昭和農地改革によって失われ、籾貯蔵倉庫も多くは取り壊されたが、そのうち3棟を地元秋田市大町の酒蔵である新政酒造が購入し、「新政酒造旧感恩講西籾蔵」「新政酒造旧感恩講東籾蔵及び米蔵」として国の登録有形文化財になっている[3]

また隣接する土地は感恩講街区公園という名の公園になり、源氏香「花散里」をモチーフにした感恩講発祥之地碑が建てられている[5]。これは初代藩主であった佐竹義宣香道を好んだことから佐竹家の別紋として花散里を使用していたものを、感恩講設立の際に下賜したことに由来する。

この他にも県内各地に広がった感恩講の活動の記念碑などが残されている。

脚注

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  1. ^ 感恩講の歴史 社会福祉法人感恩講児童保育院
  2. ^ 出口正之「日本における民法施行前の「講」と現代非営利組織(NPO)との特性の共通性」『国立民族学博物館研究報告』第38巻第3号、国立民族学博物館、2014年3月、299-335頁、CRID 1390290699797238784doi:10.15021/00003825hdl:10502/5311ISSN 0385-180X 
  3. ^ a b 登録有形文化財(建造物) 新政酒造 - 秋田県
  4. ^ 秋田市の先人たち 秋田市
  5. ^ 感恩講発祥地の碑 (PDF) 文化財イラストマップ 秋田市中央地区編

関連項目

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外部リンク

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