慶滋為政
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慶滋 為政(よししげ の ためまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族・文人。氏は善滋とも記される。加賀守・賀茂忠行の孫で、能登守・慶滋保章の子。官位は従四位上・文章博士。善博士とも呼ばれた。
経歴
[編集]一条朝前期の長徳4年(998年)文章生であったが、方略試に及第して権少外記に任官する。長保5年(1003年)巡爵により従五位下に叙爵し、まもなく外記を去ったか。
式部少輔を経て、一条朝末の寛弘8年(1011年)3月に大内記を兼ねるが、同年6月の三条天皇の践祚を経て、同年10月に河内守として地方官に転じた。その後、三条朝にて従四位下・内蔵権頭に叙任される。
長和5年(1016年)後一条朝の大嘗会では主基方屏風歌を詠む[1]。寛仁2年(1018年)文章博士に任ぜられると10年以上に亘ってこれを務め、民部権大輔・河内守も兼ねた。また、治安[2]・万寿[3]・長元[4]の三度に亘って、勘申した元号が採用されている。
人物
[編集]和漢に優れ、寛仁2年(1018年)の小一条院の大堰川遊覧では真名序を[5]、万寿元年(1024年)の後一条天皇の高陽院行幸の後宴では仮名序を作成した[6]。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に4首の和歌作品が採録されている[7]。
官歴
[編集]- 時期不詳:文章生[8]
- 長徳4年(998年) 日付不詳:方略試及第[8]。10月22日:権少外記[9]
- 長徳5年(999年)正月:少外記[9]
- 長保5年(1003年)正月7日:従五位下[9]。正月30日:辞少外記?[9]
- 時期不詳:式部少輔[10]
- 寛弘8年(1011年) 3月19日:兼大内記[10]。9月15日:見正五位下[10]。10月5日:河内守[10]
- 長和4年(1015年) 4月23日:見内蔵権頭[11]。12月4日:見従四位[11]
- 寛仁2年(1018年) 9月24日:文章博士[8]
- 治安4年(1024年) 正月7日:見民部権大輔[11]
- 万寿2年(1025年) 3月4日:見河内守[11]
- 時期不詳:従四位上[12][13]
- 長元2年(1029年) 10月22日:見文章博士
- 長元5年(1032年) 3月27日:故人[14]
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『御堂関白記』長和5年11月10日条
- ^ 『権記』『左経記』治安元年2月2日条
- ^ 『権記』『左経記』万寿元年7月13日条
- ^ 『小右記』長元元年7月25日条
- ^ 『平安鎌倉記録典籍集』(東京大学史料編纂所影印叢書、八木書店、2007年)所収
- ^ 『栄花物語』、『殿宴和歌』国立歴史民俗博物館蔵(高松宮家旧蔵)、『和歌序集』内閣文庫蔵
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b c 杉崎「善滋為政朝臣」
- ^ a b c d 『外記補任』
- ^ a b c d 『権記』
- ^ a b c d 『小右記』
- ^ a b c 『尊卑分脈』
- ^ 『朝野群載』第26
- ^ a b c 『左経記』長元5年3月27日条
- ^ 「賀茂系図」『続群書類従』巻第167
参考文献
[編集]- 杉崎重遠「善滋為政朝臣」『勅撰集歌人伝の研究 王朝篇・巻一』東都書籍、1944年
- 山本真由子「慶滋為政の和歌序 : 摂関期の和歌序の特質」『文学研究・文化研究の方法とグローバル展開を探る』大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター、2020年
- 『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年
- 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年