成田徳之進
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成田 徳之進(なりた とくのしん、1856年(安政3年)[1] - 1936年(昭和11年)[1])は日本の政治家。青森県弘前市長。
来歴
[編集]1879年、青森県師範学校卒[1][2]。北津軽郡教督となる[1][2]。その後、東津軽郡書記となり、20年間務める。1933年、政友会の後押しを受け、弘前市長に就任する[1][2]。当初、政友会は市長に元市長の石郷岡文吉を推したが、反政友会派は吉岡文蔵を推した。そのため、市長候補を元市会議長の三上直吉に変更、反政友会派も元市会議長の東海健蔵に変えた。投票では15対14の1票差で三上となったが、反政友会派はこれを認めず、東海を市長にした。そのため、市長が二人いるという前代未聞の事態となった。事態を重く見た青森県は選挙のやり直しを命じ、市長選はやり直しとなり、政友会に推された成田と反政友会派の東海の争いとなり、再選挙の結果、成田が勝利した[2]。この政争には市民からも批判を浴び、集会が開かれたほどだった。こうして、成田は市政健全化に采配を振るったが、翌年、名古屋で行われた全国市長会議の帰りに寄った東京で事故に遭い、右足を骨折し、長く病床に伏すこととなり、志半ばで市長を辞任することとなった。辞任後の1936年に死去した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。