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戸田忠行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田忠行
時代 江戸時代後期(幕末) - 大正時代
生誕 弘化4年10月2日1847年11月9日
死没 大正7年(1918年12月31日[1]
改名 七之助(幼名)、忠行
墓所 東京都新宿区牛込の松源寺
官位 従五位下、長門守、子爵
幕府 江戸幕府 陸軍奉行並(大番頭
下野国足利藩
氏族 戸田氏
父母 父:戸田忠禄、養父:戸田忠文
先妻:松前崇広の長女・武子
後妻:亀田謙叔の四女・時子
忠雄(長男)、鮭、秋、謀子、忠四郎、五郎
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戸田 忠行(とだ ただゆき)は、下野足利藩の第8代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家分家8代。

生涯

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弘化4年(1847年)10月2日、第6代藩主・戸田忠禄の四男として生まれる。父は忠行が生まれる前の9月20日に死去したため、戸田家の家督は父の婿養子であった忠文が継いだ。安政3年(1856年)に忠文が死去したため、忠行はその養子となって家督を継ぐ。文久2年(1862年)12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。

文久3年(1863年)6月から職制改革などを主とした藩政改革を行なう。慶応3年(1867年)10月に陸軍奉行並に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府・新政府の双方に対して曖昧な態度を取ったが、最終的に新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により足利藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。

その後は東京へ移り、神田表の神保町に住んだ。1879年(明治12年)に海軍裁判所御用掛・海軍御用掛に任じられる。1884年(明治17年)の華族令で子爵となった。1892年(明治25年)に本郷区駒込の東片町に移住したが直後に火事で家を焼失、本郷区向岡の弥生町に移った。1897年(明治30年)7月10日に貴族院議員となり[2]、1904年(明治37年)7月9日まで在任[1]1906年(明治39年)に勲四等を受賞する。同年5月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で再選され、1911年(明治44年)7月9日まで在任した[1]

1917年(大正6年)8月22日に隠居する[3]。大正7年(1918年)12月31日に死去した。享年72。

家族

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父母

子女

  • 戸田忠雄(長男)生母は武子(前妻)
  • 戸田鮭 ー 小堀十亀夫人
  • 戸田秋、生母は時子(後妻)
  • 戸田謀子 ー 子爵大田資業夫人
  • 戸田忠四郎
  • 戸田五郎

脚注

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  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、8頁。
  3. ^ 『官報』第1527号、大正6年9月3日。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
足利戸田家初代
1884年 - 1917年
次代
戸田忠雄