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本庄宗資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本庄 宗資 (ほんじょう むねすけ、寛永6年(1629年)頃 - 元禄12年8月16日1699年9月9日))は、江戸時代前期の譜代大名下野国足利藩主、のち常陸国笠間藩初代藩主。本庄松平家初代。はじめ公家の家臣(青侍)だったが、徳川綱吉の生母桂昌院の弟にあたるため、桂昌院の庇護を受けて大名に立身した。

生涯

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摂関家の一つ二条家家臣の本庄宗正の次男。母は鍋田氏の娘。徳川綱吉の生母である桂昌院(徳川家光側室・お玉の方)は異父姉である。正室は隠俊実・二条家家司の娘。子は村上常勝(長男)、本庄資俊(次男)、富田知郷(四男)、牧野康重(五男)、娘(六角広治室)、娘(興津忠閭室)、娘(大沢基明室)。通称は平四郎(へいしろう)、次郎左衛門(じろうざえもん)。官位は従四位下、侍従因幡守。

京都に生まれ、明暦2年(1656年)12月に姉・桂昌院の子である館林藩主徳川綱吉に仕えるようになり、館林藩奏者番などを勤めた。寛文8年(1668年)に初めて将軍徳川家綱御目見し、延宝8年(1680年)、綱吉が家綱の没後に将軍となると、綱吉の嫡男・徳松に従う形で江戸城へ移り、切米800俵の幕府御家人に列した。この御家人というのは『寛政重修諸家譜』にある記述であるが、甥と叔父の関係にある綱吉と御目見できない関係とは考えがたく、旗本の誤りではないかと考えられる。いずれにしてもこれ以降、将軍綱吉とその生母桂昌院は、親戚の宗資を引き立てようと加増が繰り返される。

天和元年(1681年)3月5日には1200石加増があり(この際に先の切米も所領に改められる)、常陸国真壁郡河内郡のうちにおいて都合2000石。天和3年11月2日にさらに真壁に3000石加増。貞享元年(1684年)12月25日には従五位下・因幡守に叙任している。元禄元年(1688年)にさらに下野国足利郡5000石を加増されて都合1万石となり、先の真壁の領地もすべて足利に移されて、下野国足利藩を立藩した。元禄2年(1689年)4月22日には姉の桂昌院が本庄邸に入り、11月にまた1万石の加増を受けた。元禄3年(1690年)12月25日には従四位下に昇進。元禄5年(1692年)11月11日には綱吉と桂昌院が本庄邸に「将軍お成り」し、この際に2万石加増で領地を常陸に移されて笠間藩主4万石となった。元禄7年(1694年)4月の「将軍お成り」の際にもさらに1万石加増と侍従の官職を受けた。元禄12年(1699年)8月16日に死去した。享年71。浅草安養寺に葬られた。

家督は次男の資俊が継ぎ、この資俊の代に松平姓が与えられた。

関連項目

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