井上正任
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永7年(1630年) |
死没 | 元禄13年12月16日(1701年1月24日) |
別名 | 大学助(幼名)、正任 |
戒名 | 源正院了学日任 |
墓所 | 東京都豊島区雑司が谷の本納寺 |
官位 | 従五位下、相模守、中務少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 常陸笠間藩主→美濃郡上藩(八幡藩)主 |
氏族 | 井上氏 |
父母 | 父:井上正利、母:鳥居成次の娘 |
兄弟 | 正任、正信、正興 |
妻 | 本多忠義の娘 |
子 | 正幸、正岑、正長、娘(金森頼業正室)、酒井重英(五男)、正照(六男)、七男、娘(松平信輝正室)、娘(丹羽氏音正室)、娘、娘 |
井上 正任(いのうえ まさとう)は、常陸笠間藩第2代藩主、のち美濃郡上藩初代藩主。浜松藩井上家3代。
生涯
[編集]寛永7年(1630年)、笠間藩初代藩主(当時遠江横須賀藩主)井上正利の長男として生まれる。寛文9年(1669年)6月、父の隠居により家督を継いで笠間藩主となる。このとき、弟の井上正信に新田2000石、井上正興に1000石を分与している。9月に奏者番に任じられたが、延宝2年(1674年)6月に奏者番の任務において失態があったため、延宝3年(1675年)4月まで蟄居を命じられている。
天和3年(1683年)、江戸城三の丸の修理手伝いを命じられる。貞享2年(1685年)から翌年まで、越後騒動により改易された越後高田藩の高田城の在番を、信濃飯田藩主・堀親貞と共に務めた。在番中に堀が死去したため、溝口重雄と交替している。
元禄5年(1692年)11月12日に美濃郡上郡・越前大野郡に移封された(美濃郡上藩)。このとき、財政上の理由から家臣団をリストラしている。元禄6年(1693年)9月2日、家督を次男の正岑に譲って隠居した。元禄13年(1701年)12月16日に死去した。享年71。
系譜
[編集]父母
正室
- 本多忠義の娘
子女
- 井上正幸(長男)生母は正室
- 井上正岑(次男)生母は正室
- 井上正長(三男)生母は正室
- 金森頼業正室、長女、生母は正室
- 酒井重英(五男)生母は正室
- 井上正照(六男)生母は正室
- 松平信輝正室、三女、生母は正室
- 丹羽氏音正室、四女