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遠藤慶利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
遠藤慶利
遠藤慶利像(乗性寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長14年4月8日1609年5月11日
死没 正保3年6月28日1646年8月9日
改名 三郎四郎、慶重、慶利
戒名 乗雲至誠院(宗雲)
官位 内蔵助従五位下伊勢守但馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
美濃国八幡藩藩主
氏族 宇多源氏 三木姉小路氏森氏平氏 良文流千葉支流 遠藤氏
父母 父:三木直綱、母:遠藤慶隆の娘・清洲
養父:遠藤慶隆
正室:板倉重宗の娘
常友常昭常紀、女子(小笠原貞信室)
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遠藤 慶利(えんどう よしとし)は、美濃国八幡藩の第2代藩主。三上藩遠藤家2代。室は板倉重宗の娘[1][2]。はじめ慶重と名乗る[1][2]

生涯

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慶長14年(1609年)、三木直綱の次男として八幡で生まれた[1][2]。幼名は三郎四郎とも内蔵助ともいった[2][1]。母は遠藤慶隆の娘[1][2]

外祖父の遠藤慶隆には嫡子遠藤慶勝がいたが、大坂冬の陣の際に発病し、翌年に京都で病死した。慶隆には他に男子がなかったため、慶利が養嗣子とされた。

寛永2年(1625年)9月22日、従五位下伊勢守に叙任する[1][2]。同9年(1632年)8月26日、慶隆の死去により家督を継ぐ[1][3]

寛永11年(1634年)、将軍・徳川家光上洛供奉する[4][1]。のち但馬守となる[1][4]。同13年(1636年)12月、大磯で朝鮮通信使の接待役を務めた[4]。同16年(1639年)、用木材1000本を課せられ、郡内で伐採し、納めた[4]。同20年(1643年)、大垣名古屋間の警固伝馬の督務につく[4]正保元年(1644年)秋には駿府在番を命じられた[4]

正保3年(1646年)6月28日、江戸において38歳で死去した[4][1]。乗雲至誠院と号した[1](「東家遠藤家記」では宗雲)[4]

跡を長男の常友が継いだ[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 寛政譜 1923, p. 884.
  2. ^ a b c d e f 太田 1960, p. 224.
  3. ^ 太田 1960, pp. 224–225.
  4. ^ a b c d e f g h 太田 1960, p. 225.

参考文献

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  • 太田成和 編『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年8月15日。NDLJP:3008815 (要登録)
  • 「巻第五百三十四 平氏 良文流千葉支流 遠藤」『寛政重脩諸家譜』 第三輯、國民圖書、1923年2月18日。NDLJP:1082714 オープンアクセス