遠藤常友
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遠藤常友像(乗性寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永5年7月16日(1628年8月15日) |
死没 | 延宝4年5月4日(1676年6月15日) |
改名 | 慶澄・常季 |
官位 | 従五位下、備前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 美濃八幡藩主 |
氏族 | 遠藤氏 |
父母 | 父:遠藤慶利、母:板倉重宗の娘 |
兄弟 | 常友、常昭、常紀、娘(小笠原貞信継室) |
妻 | 正室:戸田氏信の娘 |
子 | 常春(次男)、娘(石川総乗正室)、娘(蒔田定次正室)、慶紀(遠藤内記) |
遠藤 常友(えんどう つねとも)は、美濃八幡藩の第3代藩主。三上藩遠藤家3代。第2代藩主・遠藤慶利の長男。母は板倉重宗の娘。正室は戸田氏信の娘。側室もいた。慶澄・常季とも名乗った。
生涯
[編集]正保3年(1646年)に父の死去で家督を継ぐと、常友と名乗った。このとき、弟の常昭と常紀に2000石と1000石を分与している。この2人の系統は旗本として明治維新まで存続した。藩政においては新田奉行を設置して新田開発に努め、居城の規模拡大や城下町の建設に尽力した。文化的にも優れた人物で、歌道の嗜みがあり、先祖東常縁の歌を編集して『常縁集』を編纂した。能楽や絵画などにも造詣が深かった。
慶安4年(1651年)、大坂加番に任じられた。寛文7年(1667年)に城を大改修し、郡上八幡藩遠藤家は「城主格」から正式な「城主」として遇されることとなった。
しかし晩年には二日町騒動、名主騒動などが起こって、藩政は多難を極めた。延宝4年(1676年)5月4日、49歳で死去した。跡を次男の常春が継いだ。
戸田氏信の娘を正室とし、正室が生んだ常春が跡を継いだことから、戸田家は遠藤家の親類として、以後の藩政や家督相続にたびたび関わることになった[1]。