姉小路氏
三木氏 (姉小路氏) | |
---|---|
本姓 |
称・宇多源氏佐々木氏流多賀氏庶流 藤原北家秀郷流? |
家祖 | 多賀則綱 |
種別 | 武家 |
主な根拠地 | 飛騨国 |
著名な人物 |
姉小路良頼 姉小路頼綱 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
姉小路氏(あねこうじし/あねがこうじし/あねのこうじし)は、飛騨の戦国大名となった氏族。宇多源氏の苗裔と称した三木氏(みきし/みつきし)である。多賀氏と同族とされる。
来歴
[編集]三木氏の姉小路氏継承
[編集]三木氏は宇多源氏の佐々木氏の庶流である多賀則綱を祖とするといわれ、近江国甲賀郡三木を起源としたという。彼は同族である飛騨守護・京極氏の家臣として飛騨に移り、益田郡の竹原(現在の下呂市)に定着した。室町時代には益田郡の桜洞城(現在の下呂市)を拠点として飛騨南部を支配するようになる。戦国時代に入って京極氏の支配が緩むと、三木氏は次第に力を付け始めて三木直頼のときに飛騨を支配する戦国大名にまで成長した。
そして直頼の子・三木良頼のとき(天文23年(1554年)10月頃)より、飛騨国は錯乱状態になった。錯乱の詳細は不明だが、「三ヶ御所(姉小路氏の古川殿・小島殿・向殿の城)」を巡っての争いであったとされる。永禄元年(1558年)には従五位下に叙任され、子の光頼(後の自綱)は飛騨介へと任官された。この際、良頼が飛騨守に叙任されたとする説もあるがこれは誤りである。永禄元年にはあくまで三国司という屋号を名乗ることを許されたのであり、実際に飛騨国司に就任したのではない。良頼は永禄3年(1560年)に飛騨守へと任官され、同時期に名字を姉小路(古川)へと改めている。
良頼や光頼等の三木氏による飛騨国司就任と姉小路氏継承は、本来は三木氏側による乗っ取り・僭称であり、朝廷や幕府への工作によってなされたものであると考えられてきた。しかし、永禄6年(1563年)の『補略』には、本来の姉小路氏(小島時親(時秀の子)、小島雅秀(時親の子)、小島時忠(雅秀の弟)、古川満堯(古川済俊の養子)、古川時基(満堯の子))が叙位任官されている記録が残されており(なお、ここには見えない向姉小路氏も向宣政のように生き残っている)、三木氏は姉小路氏を滅ぼしたわけではなく、姉小路氏の一族として同化したというのが実際の流れである。
姉小路氏の飛騨統一と没落
[編集]飛騨は領域を接する信濃国北部の川中島四郡において甲斐国の武田信玄と越後国の上杉謙信が川中島の戦いを繰り広げており、また飛騨の南部には尾張国の織田信長が美濃へ本拠を移し、領域を接していた。姉小路氏をはじめ飛騨国衆は特に武田氏・上杉氏の争いと相関し、三木嗣頼・自綱は江馬輝盛とともに上杉方に属するが、永禄7年(1564年)には三木氏・江馬輝盛と敵対する江馬時盛が武田方に属し、同年6月には武田氏の出兵を受け三木氏・江馬輝盛は降伏した。元亀4年/天正元年(1573年)4月に武田信玄が死後、姉小路氏は信長に従ったため、国内は親・上杉派と親・織田派の抗争となり、これが姉小路氏の勢力を削ぐ結果となった。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡する。同年6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、姉小路頼綱は織田家臣・佐々成政に協力して羽柴秀吉と敵対したため、天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた金森長近に攻められて降伏し、国司としての姉小路氏は滅亡した。
子孫は姉小路を憚って本来の三木姓に復し、江戸幕府の旗本として徳川氏に仕えた。
姉小路一族衆
[編集]系譜
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
藤原氏説(『飛州志』、『寛永系図伝』)
三木正頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良頼 (姉小路嗣頼) | 真証 | 頼一 | 宗行 | 直弘 | 久頼 | 一宮長綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自綱 (姉小路頼綱) | 鍋山顕綱 | 女 | 三木国綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
姉小路信綱 | 姉小路秀綱 | 鍋山元綱 | 一宮綱広 | 小島元頼 (三木基頼) | 森直綱 | 三木近綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森自直 | 遠藤慶利 | 春綱 | 森自直 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自宣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自常 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自朗 | 富永参常 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自香 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高朗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多賀氏説(『白石紳書』『多賀家中原考』)
多賀朝則 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三木則綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良充 | 直頼 | 佐々木友則 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多賀員則 | 姉小路良頼[1] | 一宮長綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼綱 | 三木顕綱 | 女 | 三木国綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信綱 | 秀綱 | 一宮綱広 | 森直綱 | 三木近綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森自直 | 遠藤慶利 | 森自直 | 春綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自宣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自常 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自朗 | 富永参常 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
自香 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高朗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この他にも、家系図があり、『続群書類従』の「飛騨姉小路氏系図」、『寛政重修諸家譜』には、姉小路氏に繋がる系図が書かれているが、信憑性は低い。
関連人物・関連氏族
[編集]一門
姉小路家(飛騨国司家)