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所郁太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
所 郁太郎
所郁太郎像(美濃赤坂
時代 幕末
生誕 天保9年2月16日1838年3月11日
死没 慶応元年3月12日1865年4月7日
別名 石川春斎
墓所 日本の旗 日本
山口市吉敷東三舞
大垣市赤坂妙法寺
官位従四位
主君 毛利敬親
大垣藩
長州藩
氏族 矢橋氏
所氏(妻 : たつ)
父母 実父:矢橋亦一
養父 : 所伊織
実子 : 所す免
養嗣子 : 矢橋実吉
孫 : 所すゑ
特記
事項
山口市湯田温泉2丁目 井上公園 (井上馨生家「高田御殿」跡地
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所 郁太郎(ところ いくたろう)は、幕末の医者、志士。井上聞多(後の井上馨)遭難の際に、井上を治療した人物。

生涯

[編集]

美濃国赤坂の醸造家・矢橋亦一の子として生まれ、同国大野郡の医者所伊織の養子となった[1][2][3]。初め、嘉永5年 (1852年) より、加納藩医・青木松軒に学ぶ。次いで京の安藤桂洲に学ぶ[1][2]。このころ、同じく美濃出身の梁川星巌と親交を結んだ。

万延元年(1860年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学び、福沢諭吉大村益次郎との交友を得、秀才の誉れ高く、塾頭にまでなったとされる[4]が、誤解である。記事中「塾頭になった」と書いてるのは大村益次郎のことであり、塾頭のリストには所の名前はない。

郁太郎入門時、洪庵と倍以上の年齢差、その中、深く知り合ったという。この頃、塾には「ヅーフ」という入手困難なオランダ語の字引があり、三畳間の机上に大切に置かれていた。それ故「ヅーフの間」とよばれていたが、塾生は、用あるごとに、この三畳間へ行き、字引と向き合う必要があった。猛勉強の塾生、多くは、深夜もこの室におしかけた。郁太郎、ほぼ毎夜この「ヅーフの間」に字引と向き合っていたという。洪庵の幕府奥医師就任に伴う江戸行きまでの約二年間学ぶ。

後、京にて医者として開業[1][2]。近傍に長州藩邸があったことから、郁太郎の治療を請う長州藩士が多く[1][2]、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。

文久2年(1862年)、桂小五郎の推挙により長州藩京都藩邸医院総督となる。同年10月、藩主・毛利敬親お目見えとなる。この新規召抱えに際してのお目見えは、他藩 (大垣藩) 出身者だけに、目に留まる。後日談がある。イギリス留学中であった長州ファイブのうち、留学先から急遽帰国した、伊藤俊輔 (伊藤博文)井上聞多 (井上馨)。彼ら2人に対して藩は異なった対応をする。この2人、留学先・イギリスからの帰国後、4カ国講和談判の折、足軽出身・伊藤 はお目見えかなわず、毛利元就以前から毛利家に仕える名門出身の井上 はお目見えとなる。彼ら2人及び郁太郎に対する藩の対応をそれぞれ比較した場合、郁太郎に対する藩の評価を垣間見ることができよう[4]

その郁太郎、寺社組支配・米銀方奉行・遊撃隊軍監の要職を歴任することになる。

八月十八日の政変では長州に下向している[1][2]

京都藩邸医院総督となった所郁太郎は、井上聞多 (井上馨)遠藤謹助山尾庸三伊藤俊輔 (伊藤博文)野村弥吉 (井上勝)の5人(長州ファイブ)に、京都で会うことになる。彼ら長州ファイブがロンドン (ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンなど) に留学するに当たり、旅立つ前に、適塾出身の郁太郎から、イギリス渡航のための情報を得るためとも。のちの、平成26年 (2014年) 5月1日、安倍晋三内閣総理大臣は、このユニバーシティ・カレッジ・ロンドン (UCL)構内の長州ファイブ記念碑を訪れている。[5]

元治元年(1864年)、長州藩領の吉敷郡に開業し、元治元年9月25日、袖解橋付近にて刺客に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している[1][2][6]。この時、随行していた三条実美の許しを得て急遽駆けつけた郁太郎は、手術道具を持っていなかったが、たまたま数日前から屋敷に出入りしていた畳職人の畳針を借りて傷口の縫合を行い、これによって井上は一命を取り留めた。郁太郎が井上の屋敷に着いた時にはすでに藩医の長野昌英・日野宗春という2人の医者がいたが、重傷で手を付けられず郁太郎が両医師の補助を受けつつ約50針に及ぶ縫合を行った[6]。この時、聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して、「何をする。死んだらお国のために尽くせるか」と諌め、介錯を思いとどまらせた。この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書、国民学校国語教科書『初等科國語八』に「母の力」と題して紹介されている[4]。 そのため、戦前の日本では誰もが知る人物であった。

『世外井上公傳』182頁に拠れば、

…口を公の耳に附け、大聲にて、「予は所郁太郎だ。君は家兄に介錯を請うたけれど、母君は是非に治療を受けしめようと自身で君を抱へ、强いて家兄を制止せられた。今現に君を抱へてゐるのは、即ち母君なるぞ。實に非常の負傷だから、予の手術が効を奏するかどうか分からぬが、母君の切なる至情は黙止する譯にはゆかぬ。宜しく予が手術を施すのを甘諾し、多少の苦痛は母君の慈愛心に對して之を忍ばねはならぬ。」と。その言が公の耳底に徹したと見え、頗る感動したやうであった。所は直ちに下げ緒を襷に掛け、焼酎で傷所を洗滌し、小さい畳針を以て縫合し始めた。公は殆ど知覺を失ひ、左程に苦痛を感じなかったやうであったが、それでも右頬から唇に掛けての創口を縫うた時には、苦痛の體であった…

と記されている[6]

八月十八日の政変から功山寺挙兵に至る、幕末の長州藩が苦しかった時期に、久坂玄瑞らと奮戦。遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦した。

温雅なる所郁太郎、高杉晋作を身を以て支えるも、国事では阿附せず、詭激なる高杉晋作も常に己を屈してこれに従ったという。

郁太郎が軍監を務める遊撃隊、吉敷・円正寺にて本陣構える。作戦を立てるに余念なき2月末、腸チフスに罹患。進行早く高熱、衰弱激しく3月12日 (1865年4月7日)、危篤となり、品川弥二郎、同郷の従弟で郁太郎を慕って長州にいた長屋丁輔らに見送られ、本陣にて没する[1][2]。享年27歳。

この長屋丁輔は亡くなった郁太郎の刀、肖像写真、遺髪を持ち帰った。

明治2年 (1869年)、明治天皇勅旨により「霊山官祭招魂社」として全国で初めて創立された京都霊山護国神社に祭られた。

梁川星巌と所郁太郎の碑(京都霊山護国神社

郁太郎の遺功に対する従四位の追叙 (維新後贈位者) は、元勲井上馨内務大臣品川弥二郎らによる。

建碑は、井上馨の念願するところであったが、彼自身実現できなかった。のちに、その建碑の話が具体化し、ついに孫の侯爵井上三郎の支援により、所郁太郎・贈従四位頌徳記念碑が第二の故郷・大野町において建立されるに至った。

大垣市赤坂宿・本陣跡にある所郁太郎像、以下の碑文がある。

所郁太郎は我が赤坂町の生める幕末の志士にして至誠奉公、赤心事に当たり終に身を以って国事に仆る…

井上馨銅像と並んで、「高田御殿」といわれた井上馨・生家の跡地の井上公園(約5,000m2山口市湯田温泉)に設置されている所郁太郎顕彰碑には、以下の記述がある。

…七卿西下に降してはその医員を命ぜられた 元治元年九月 瀕死の井上を奇跡的に救った 後年の井上の業績を思うとき この所の治療を忘れてはならない 慶応元年正月 高杉晋作が兵を擧げ 藩の俗論党と戦った時 所は迎えられて遊撃隊の参謀となり 高杉に協力した その後幕府の長州征伐に備えて 軍を進めようとした時 にわかに病んで 吉敷の陣中で歿した 二十七歳であった 明治になり特旨をもって従四位を贈られた
山口市湯田温泉にある所郁太郎の顕彰碑

後に、井上馨は、郁太郎の甥の矢橋実吉を鳥居坂にある井上の屋敷 (旧多度津藩江戸屋敷→井上馨邸→岩崎小弥太邸→国際文化会館) に引き取り、東京の医学校へ通わせ、矢橋実吉が外科医になると、所家の名跡を継がせた。

こうして、従四位・追叙 (維新後贈位者)、建碑、所家再興という、井上馨が構想した所郁太郎に対する具体的な形を伴った報恩は、のちの世代の助けを借りつつも、完結するに至った。

以下の郁太郎の言葉が残っている。

辛苦忠を思い身を思わず、医は人の病を医し、大医は国の病を治す


山口市吉敷東三舞・円正寺北と故郷・大垣市赤坂妙法寺 (遺髪) に墓所がある[7][1][2][8][9][10]

登場作品

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『郷土徳育資料』90-91頁
  2. ^ a b c d e f g h 『西濃人物誌』23-25頁
  3. ^ 美濃赤坂宿 ■所郁太郎■矢橋家 2019年1月12日閲覧。
  4. ^ a b c 産経ニュース 2019年1月12日閲覧。
  5. ^ 安倍総理大臣の日英研究教育大学協議会への出席及び長州ファイブ記念碑視察 2019年1月12日閲覧。
  6. ^ a b c 『世外井上公伝』180-183頁
  7. ^ 『山口史蹟概覧』62-63頁
  8. ^ コトバンク 所郁太郎 2018年10月10日閲覧。
  9. ^ 所郁太郎 嚶鳴フォーラム - 東海市芸術劇場 2018年10月10日閲覧。
  10. ^ それからの志士たち 2018年10月10日閲覧。

参考文献

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  • 『郷土徳育資料』(岐阜県師範学校附属小学校、1929年)
  • 西濃聯合教育会 編『西濃人物誌 修身資料 第1輯』(西濃印刷、1910年)
  • 井上馨侯伝記編纂会 編『世外井上公伝 第1巻』(内外書籍、1933年)
  • 『山口史蹟概覧 皇政復古七十年記念』(山口市、1936年)

関連項目

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