敦慶親王
敦慶親王 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 仁和3年12月(888年1月または2月) |
薨去 | 延長8年2月28日(930年3月30日) |
改名 | 維蕃 → 敦慶 |
別名 | 光玉宮、桂御子 |
官位 | 二品、式部卿 |
父母 | 父:宇多天皇、母:藤原胤子 |
兄弟 | 醍醐天皇、斉中親王、斉世親王、敦慶親王、敦固親王、斉邦親王、均子内親王、柔子内親王、君子内親王、戴明親王、敦実親王、孚子内親王、成子内親王、依子内親王、行中親王、誨子内親王、季子内親王、雅明親王、行明親王、源順子、他 |
妻 | 均子内親王、伊勢 |
子 | 源後古、源方古、源福慶、中務 |
敦慶親王(あつよししんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は維蕃。宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟。官位は二品・式部卿。光玉宮と号した。
経歴
[編集]宇多朝初頭の寛平元年(889年)兄の維城・斉中・斉世とともに親王宣下を受ける。翌寛平2年(890年)同母兄・維城親王(後の醍醐天皇)とともに改名し、維蕃から敦慶に改めた。のち、異母妹で皇太夫人・藤原温子所生の均子内親王と結婚するが、延喜10年(910年)に均子に先立たれている[1]。
醍醐朝の延喜13年(913年)宇多法皇が主催した『亭子院歌合』に「中務の四のみこ」として参加。既にこの時点で中務卿の官職を帯びていた。延喜16年(916年)金字寿命経を書写し、仁和寺に法会を設けて宇多法皇五十の賀を催した[2]。延喜18年(918年)の六条院への行幸では笛を吹き[3]、翌延喜19年(919年)甥の代明親王の元服において絃歌を奉じている[4]。
延長2年(924年)ごろ中務卿から式部卿に転じ、延長3年(925年)には大学別当を兼ねた。位階は二品に至る。
延長8年(930年)2月28日薨去。享年44。最終官位は二品行式部卿。
人物
[編集]容姿にすぐれ、「好色無双の美人」と評された[5]。玉光宮の通称から『源氏物語』の光源氏のモデルとの説もあり、琴・弓などに秀でた。
和歌に長じて、勅撰歌人として『後撰和歌集』に8首が入集しているほか[6]、『伊勢集』『大和物語』に和歌作品が残されている。孚子内親王(桂のみこ)[7]・伊勢らとの交際が知られ、伊勢との間には、歌人・中務が生まれている。敦慶親王の死は多くの人々に惜しまれ、伊勢・藤原兼輔らによって哀悼歌が詠まれた[8]。
官歴
[編集]注記のないものは『日本紀略』による。
- 寛平元年(889年) 12月28日:親王宣下
- 寛平2年(890年) 12月17日:維蕃から敦慶に改名
- 延喜13年(913年) 3月13日:見中務卿[9]
- 延長2年(924年) 正月27日:見中務卿[10]
- 延長3年(925年) 正月3日:見式部卿[11]。8月4日:大学別当[12]
- 延長8年(930年) 2月28日:薨去(二品行式部卿)
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 岡崎知子「伊勢伝考--敦慶親王と伊勢」『大谷学報 43』大谷学会、1963年
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年