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敦慶親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
敦慶親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 仁和3年12月(888年1月または2月)
薨去 延長8年2月28日930年3月30日
改名 維蕃 → 敦慶
別名 光玉宮、桂御子
官位 二品式部卿
父母 父:宇多天皇、母:藤原胤子
兄弟 醍醐天皇斉中親王斉世親王敦慶親王敦固親王、斉邦親王、均子内親王柔子内親王君子内親王、戴明親王、敦実親王、孚子内親王、成子内親王、依子内親王、行中親王、誨子内親王、季子内親王、雅明親王、行明親王、源順子
均子内親王伊勢
源後古、源方古、源福慶、中務
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敦慶親王(あつよししんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は維蕃宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟。官位は二品式部卿光玉宮と号した。

経歴

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宇多朝初頭の寛平元年(889年)兄の維城・斉中斉世とともに親王宣下を受ける。翌寛平2年(890年)同母兄・維城親王(後の醍醐天皇)とともに改名し、維蕃から敦慶に改めた。のち、異母妹で皇太夫人藤原温子所生の均子内親王結婚するが、延喜10年(910年)に均子に先立たれている[1]

醍醐朝延喜13年(913年)宇多法皇が主催した『亭子院歌合』に「中務の四のみこ」として参加。既にこの時点で中務卿官職を帯びていた。延喜16年(916年金字寿命経を書写し、仁和寺に法会を設けて宇多法皇五十の賀を催した[2]。延喜18年(918年)の六条院への行幸では笛を吹き[3]、翌延喜19年(919年)甥の代明親王元服において絃歌を奉じている[4]

延長2年(924年)ごろ中務卿から式部卿に転じ、延長3年(925年)には大学別当を兼ねた。位階二品に至る。

延長8年(930年)2月28日薨去享年44。最終官位は二品行式部卿。

人物

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容姿にすぐれ、「好色無双の美人」と評された[5]。玉光宮の通称から『源氏物語』の光源氏のモデルとの説もあり、などに秀でた。

和歌に長じて、勅撰歌人として『後撰和歌集』に8首が入集しているほか[6]、『伊勢集』『大和物語』に和歌作品が残されている。孚子内親王(桂のみこ)[7]伊勢らとの交際が知られ、伊勢との間には、歌人中務が生まれている。敦慶親王の死は多くの人々に惜しまれ、伊勢・藤原兼輔らによって哀悼歌が詠まれた[8]

官歴

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注記のないものは『日本紀略』による。

系譜

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注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『日本紀略』延喜10年2月25日条
  2. ^ 『日本紀略』延喜16年12月21日条
  3. ^ 『御遊抄』「朝覲行幸」
  4. ^ 『親王御元服部類記』「代明親王」
  5. ^ 「亭子院第四皇子敦慶親王玉光宮ト号ス好色無双之美人也」『河海抄』「桐壺」
  6. ^ 『勅撰作者部類』
  7. ^ 『大和物語』203段
  8. ^ 『伊勢集』『大和物語』
  9. ^ 『亭子院歌合』
  10. ^ 『貞信公記抄』
  11. ^ 『御遊抄』所引『御記』
  12. ^ 『貞信公記』
  13. ^ 『貫之集』『信明集』
  14. ^ 『続群書類従』巻第百三十四所収「児島三宅系図」

参考文献

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