藤原継蔭
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時代 | 平安時代前期 |
---|---|
生誕 | 9世紀 |
死没 | 不詳 |
官位 | 従五位上、大和守 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流 |
父母 | 父:藤原家宗、母:藤原山蔭の娘 |
兄弟 | 弘蔭、継蔭 |
妻 | 不詳 |
子 | 伊勢 |
藤原 継蔭(ふじわら の つぐかげ)は、平安時代前期の貴族。藤原北家真夏流、参議・藤原家宗の子。官位は従五位上・大和守。
経歴
[編集]清和朝の貞観13年(871年)文章生に補せられると、宮内少丞・式部少/大丞を経て、陽成朝の元慶5年(881年)従五位下・三河守兼木工頭に叙任される。
仁和元年(885年)8月に伊勢守に任ぜられ、仁和2年(886年)正月に従五位上に叙せられるが、しばらく任地の伊勢国に出発しなかったため、同じように平安京に留まっていた諸国司とともに同年2月に召問を受けている[1]。また同年9月には、伊勢神宮へ群行していた斎王・繁子内親王が滞在していた頓宮の近くで火災が発生したことから、継蔭は監督の近衛を派遣して消火に当たらせるが、強い西風を受けて頓宮は焼失した[2]。
宇多朝の寛平3年(891年)大和守に任ぜられたほか、薩摩守・隠岐守など地方官を歴任している。
官歴
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による。
- 貞観13年(871年) 4月17日:文章生[3]
- 貞観15年(873年) 2月22日:宮内少丞[3]
- 元慶2年(878年) 正月14日:式部少丞[3]
- 元慶3年(879年) 正月:式部大丞[3]。正月:蔵人[3]
- 時期不詳:正六位上
- 元慶5年(881年) 2月14日:従五位下。2月15日:三河守兼木工頭[3]
- 仁和元年(885年) 8月15日:伊勢守[3]
- 仁和2年(886年) 正月7日:従五位上
- 仁和3年(887年) 2月2日:伊勢守
- 寛平3年(891年) 正月:大和守[3]
- 時期不詳:薩摩守。隠岐守