高松宮好仁親王
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(斉祐親王から転送)
高松宮好仁親王 | |
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高松宮 | |
続柄 | 後陽成天皇第7皇子 |
全名 | 斉祐(諱)→ 好仁(諱) |
称号 | 七宮(幼称)→ 三宮(幼称) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
慶長8年3月18日(1603年4月29日) |
死去 |
寛永15年6月3日(1638年7月14日)(享年36) |
配偶者 | 亀姫(宝珠院、福井藩主松平忠直女) |
子女 | 明子女王(後西天皇女御) |
父親 | 後陽成天皇 |
母親 | 近衛前子(関白近衛前久女) |
役職 | 弾正尹 |
高松宮好仁親王(たかまつのみや よしひとしんのう、慶長8年3月18日(1603年4月29日) - 寛永15年6月3日(1638年7月14日))は、江戸時代前期の日本の皇族。世襲親王家の高松宮(有栖川宮)初代当主[1][2]。後陽成天皇の第7皇子[2]。母は関白近衛前久女近衛前子(中和門院)。幼称を七宮(しちのみや)といい、後に三宮(さんのみや)に改める[2]。書号に招月、不白がある。
慶長10年(1605年)に聖護院門主興意入道親王の附弟となり、慶長17年(1612年)に聖護院に入寺。同年12月に親王宣下を蒙り斉祐(ただすけ)と命名される。次いで元服し、名を好仁と改める。同日二品に叙品、弾正尹に任じられる。
寛永2年(1625年)10月に高松宮の宮号を賜る。この宮号は好仁親王の養母勧修寺晴子(新上東門院)の御所が高松殿であったことに由来するという。寛永7年(1630年)に福井藩主松平忠直女で2代将軍徳川秀忠養女の亀姫(宝珠院)を御息所とする。
能書家として名を馳せ、定家流や近衛流の書を多く揮毫した[2]。寛永15年に薨去、享年36。法名は永照院招月不白。