斉秉節
斉 秉節(さい へいせつ、1230年 - 1291年)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は子度。浜州蒲台県の出身。
概要
[編集]斉節の父の斉珪は金朝の混乱期に自立して軍閥を築いた厳実に仕えた武将で、帰徳・廬州の攻略に功績を挙げたことで征行千戸の地位を授けられた人物であった。中統3年(1262年)、李璮が叛乱を起こすと各地の漢人世侯に叛乱討伐が命じられ、斉珪の駐屯する棗陽も精鋭が出征して1000余りの兵が残るのみとなった。しかしこの地は南宋の襄陽・郢州に近い最前線であり、偵察に訪れる南宋兵を欺くために斉珪は守りを固め、東門の壕を飛び越えられないように広げさせた[1]。
南宋の将軍の聶都統らは1万余りの兵を率いて棗陽を東門から攻め、板をわたして壕を乗り越えようとしたが、事前の工事によって広げられた壕には板を渡せず、斉珪は南宋軍を撃退することに成功した。この功績により金符を授けられたが、至元3年(1266年)には老齢を理由に引退し息子の斉秉節に地位を譲った[2]。
斉秉節は史書によく目を通し兵法にも通じた人物であった。至元5年(1268年)、南宋との戦いに備え白河口堡鹿門山に新城を築き、郢州・大洪山・黄仙洞を攻略する功績を挙げた。至元7年(1270年)、権万戸の地位に昇格となり、至元11年(1274年)にはバヤンの軍団に属して郢州に至り、武磯堡を攻撃して閻都統を捕虜とする功績を挙げた[3]。
至元12年(1275年)、賈似道ら率いる南宋最後の大軍を丁家洲の戦いで破り、建康に駐屯することを命じられていた斉秉節は南宋の将軍の趙淮を西離山で破り、溧陽まで追撃する功績を挙げている。同年8月には武義将軍の地位に移り、12月には太平・安慶諸郡の平定に加わって南宋の将軍の張諮議を崑山の戦いで殺している[4]。至元14年(1277年)、宣武将軍・管軍総管の地位を授かり、黄州で起こった叛乱を平定して余総轄を斬首としている。至元17年(1280年)、明威将軍の地位を授かり、至元23年(1286年)には饒州に移って安仁の賊の蔡福一を討伐した。至元25年(1288年)、更に広威将軍・棗陽万戸府副万戸の地位に移ったが、至元28年(1291年)に62歳にして亡くなった[5]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻165列伝52斉秉節伝,「斉秉節字子度、浜州蒲台人。父珪、従厳実攻帰徳・廬州、有功、授無棣県尹、摂征行千戸、後兼総管、鎮棗陽。中統三年、李璮以益都叛、徴諸道兵進討、棗陽精鋭尽行、僅留羸卒千餘。珪時摂万戸府事、与宋襄・郢対塁。敵来覘虚実、珪城守周密、以東門外壕狭小可越、命浚之為備」
- ^ 『元史』巻165列伝52斉秉節伝,「宋将聶都統・陳総管果率兵万餘、抵城東門、以板渡壕、壕広、板不能及、珪率衆力戦、敵退走、城頼以完。事聞、賜金符、真授千戸。至元三年、告老、挙秉節自代」
- ^ 『元史』巻165列伝52斉秉節伝,「秉節魁偉沈毅、渉猟書史、稍知兵法、襲父爵、仍鎮棗陽。五年、従伐宋、築新城白河口堡鹿門山、略地郢州大洪山黄仙洞、数著戦功。七年、陞上千戸、権万戸。十一年、従丞相伯顔至郢、盪舟由陸入江、攻武磯堡、擒宋将閻都統」
- ^ 『元史』巻165列伝52斉秉節伝,「十二年、国兵敗宋賈似道・孫虎臣舟師于丁家洲、命秉節屯建康、与宋将趙淮戦于西離山、追至溧陽、自辰及午、宋軍乃退。八月、遷武義将軍。十二月、従定太平・安慶諸郡、与宋将張諮議戦于崑山、殺之」
- ^ 『元史』巻165列伝52斉秉節伝,「十四年、授宣武将軍・管軍総管。時黄州復叛、令秉節往討、斬余総轄于陣。十七年、授明威将軍。二十三年、移鎮饒州。安仁劇賊蔡福一叛、秉節与有司会兵討之、擒福一、餘党悉平。二十五年、陞広威将軍・棗陽万戸府副万戸。二十八年、卒、年六十二。子英襲」
参考文献
[編集]- 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
- 『元史』巻153列伝40斉秉節伝