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斉藤仁

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オリンピック
柔道
1984 男子 95kg超級
1988 男子 95kg超級

斉藤 仁さいとう ひとし1961年1月2日 - )とは、元柔道選手。ロサンゼルスオリンピックソウルオリンピック柔道競技男子95kg超級金メダリスト。現在柔道コーチ、国士舘大学体育学部教授。青森県青森市出身。段位は七段。

全日本柔道選手権大会における、山下泰裕9連覇の最後の3年間の決勝の対戦相手だった。現役時代はライバルと称されたが、ロサンゼルスオリンピックでは「先輩行ってきます」「頼んだぞ」という逸話が残されており、現役時代から信頼関係はあった。現在、共に指導者としてさらに深い信頼を寄せる間柄となっている。

略歴

山下の引退後は日本柔道のトップに立つと期待されたが、同年ソウル世界柔道選手権決勝で韓国代表趙溶徹の反則技により、脱臼する重症で棄権負け。復活を望んだ1987年も全日本選手権大会前に右膝を怪我してしまう。度重なる大怪我で限界説が囁かれたが1988年全日本選手権で悲願の初優勝を果たし、ソウルオリンピック95kg超級代表に選出された。
  • 1988年、ソウルオリンピック、金メダル。
それまで全ての階級で日本人選手が敗れ、最後に出場する事による凄まじいプレッシャーの中で優勝し、同大会の柔道競技唯一の金メダルを獲得する。準決勝で対戦した韓国選手趙溶徹(以前に負傷させられて敗れていた因縁あり)の技の掛け逃げに対し審判団がホームタウンによる大ブーイングを物ともせずに毅然と反則を取った事象は柔道競技の公正さをもっとも端的に示していた。プレッシャーの中、金メダルを獲得した斉藤選手はもちろん賞賛に価するが審判団も誉められていい裁定であった。表彰式の時、斉藤選手が号泣しながら君が代を斉唱していた姿は強く印象に残る場面であった。 
  • 選手引退。以後国士舘大学柔道部コーチ、全日本柔道連盟男子強化ヘッドコーチとして活躍。国士舘大学体育学部教員を兼任。
  • 2004年アテネオリンピック日本選手団男子柔道監督。
  • 2007年、講道館の鏡開きの際、形の演武を行った。彼いわく「オリンピックより緊張した」

戦歴

  • 1979年:全日本学生選手権 準優勝※
  • 1980年:全日本学生選手権 優勝
  • 1981年:全日本学生選手権 優勝
  • 1982年:全日本選抜柔道体重別選手権大会95kg超級 準優勝※
  • 1982年:嘉納治五郎杯国際柔道大会無差別級 準優勝※
  • 1983年:モスクワ世界選手権無差別級 優勝
  • 1983年:全日本選抜柔道体重別選手権大会95kg超級 準優勝※
  • 1983年:全日本柔道選手権大会 準優勝※
  • 1984年:全日本柔道選手権大会 準優勝※
  • 1984年:ロサンゼルスオリンピック柔道95kg超級 金メダル
  • 1985年:全日本選抜柔道体重別選手権大会95kg超級 優勝
  • 1985年:全日本柔道選手権大会 準優勝※
  • 1985年:ソウル世界選手権95kg超級 準優勝
  • 1986年:全日本柔道選手権大会 3位
  • 1988年:全日本選抜柔道体重別選手権大会95kg超級 優勝
  • 1988年:全日本柔道選手権大会 初優勝
  • 1988年:ソウルオリンピック柔道95kg超級 金メダル

※は、山下泰裕が決勝の対戦相手(通算7戦7敗)

著書

余談

吉田戦車伝染るんです。に登場する人面カブトムシ、「斎藤さん」のモデルとされている。

関連項目

外部リンク