斎藤克男
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県宇都宮市 |
生年月日 | 1942年1月28日 |
身長 体重 |
176 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1962年8月7日 |
最終出場 | 1971年9月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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斎藤 克男(さいとう かつお、1942年1月28日 - )は栃木県[1][2]宇都宮市[3]出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]作新学院高等部時代は1958年の夏の大会で初出場を4強・国体では初出場を優勝[4]に導いた古口典央[注釈 1]が引退した栃木県大会から正捕手となった。
1958年秋の栃木県大会でチームは1回戦に宮下陽吾[注釈 2]と松本照夫の両投手が控える栃木商業、準決勝ではエース大井道夫率いる宇都宮工業を破り勝ち進んだ[5][6]。そして決勝の矢板高戦では先制点となるタイムリー二塁打を放って勝利を呼び込み、4番・捕手として作新学院の秋季県大会初優勝の一端を担った[7]。
秋の関東大会でも土田伸三投手とのバッテリーを務めながら[8]4番に座り、作新は優勝の成績を収めた[9]。千葉県の木更津一高に対しては4打数で二塁打を含む2安打[10]、茨城県の土浦三高に対しては5打数1安打の成績だった[11]。決勝戦では山梨県大会決勝でノーヒットノーランを達成した池谷隆[12][注釈 3]や斉藤征夫[注釈 4]を擁する石和高に対しては3打数0安打に抑えられたが1四球1犠打の成績を残した[9]。
秋季の関東大会で優勝した作新は順当に行けば翌春の選抜野球に出場することは間違いないと考えられた[13]。しかし部内での不祥事により学校は次の選抜野球を辞退する意向を選び、高野連によって1959年11月中までの一切の対外試合が禁止された[13][14]。この措置により斎藤は3年生のシーズンに甲子園大会をはじめとする公式試合に出場することが叶わなくなった。
1959年11月11日に阪急ブレーブスと正式に契約した[15]。
現役時代
[編集]1960年に阪急に入団。実働9年間で80試合に出場するもののほとんどは偵察要因としての出場であり、たった1回しか打席に立たなかった[1]。シーズン中もほとんどブルペンキャッチャーのような状況であったが、1973年オフに監督に就任した上田利治により「コーチ補佐」として抜擢され、選手としては同年で引退した[1][16][17]。
引退後
[編集]1974年から阪急でコーチ補佐・二軍バッテリーコーチとなり山口高志などを指導している[18][19]。1982年に阪急を退団し、1983年から日本ハムファイターズで一軍トレーニングコーチを務めて江夏豊などの調整を行った[20][21]。
その後は兵庫県の少年野球チーム「兵庫尼崎」の監督を務め、中学生時代の田中一徳や福沢卓宏を指導した[22][23]。1997年には監督を行っていることが報道されているが、2000年以前に退いている[22][23]。
近年では全国野球振興会会員(日本プロ野球OBクラブ所属)として[2][24]、2015年の第21回ダイワハウス全国少年少女野球教室に講師として参加していることが確認できる[25][26]。
画像外部リンク | |
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第21回ダイワハウス全国少年少女野球教室にて撮影・公開されたスナップ 島根県雲南市、大東公園市民球場 |
人物
[編集]選手時代はチームでも抜きんでて研究熱心とされていたが、一方で打力不足が指摘されていた[27]。
阪急コーチ時代には鬼軍曹として恐れられた[28]。また、上田監督から選手のケガ防止を相談された結果[29]、独学でヨガから編み出した「斎藤式体操」「ストレッチ体操」を選手に指導していた[1][28]。
80試合1打席しか実績がなかったにもかかわらず18年間阪急に在籍し、選手に指導する立場にすら就いた斎藤の経歴について、プロ野球人国記 (2004)は「異色」「さまざまな野球人生がある」と評している[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1962 | 阪急 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1963 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1965 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1966 | 41 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1967 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1968 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1969 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1970 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1971 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:9年 | 80 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
記録
[編集]- 初記録
背番号
[編集]- 57 (1960年 - 1973年)
- 74 (1974年 - 1982年)
- 89 (1983年 - 1985年)
注釈
[編集]- ^ のちに日本ビール硬式野球部
- ^ のちに日本ビール硬式野球部・国鉄スワローズ
- ^ のちに東京ガス硬式野球部
- ^ のちに芝浦工業大学硬式野球部・日産自動車硬式野球部。日産では第17回日本産業対抗野球大会でMVPを獲得
出典
[編集]- ^ a b c d e プロ野球人国記 2004, p. 68
- ^ a b OBクラブ 2003
- ^ '78プロ野球百科名鑑 日本スポーツ出版社
- ^ 朝日新聞栃木版 1958, p. 10
- ^ 朝日新聞栃木版 1958a, p. 8
- ^ 朝日新聞栃木版 1958b, p. 10
- ^ 朝日新聞栃木版 1958c, p. 10
- ^ 『経済時代 33(5)(410)』経済時代社、1968年5月、90頁。doi:10.11501/2203922 。2023年1月5日閲覧。
- ^ a b 朝日新聞栃木版 1958f, p. 10
- ^ 朝日新聞栃木版 1958d, p. 12
- ^ 朝日新聞栃木版 1958e, p. 10
- ^ 朝日新聞山梨版 1958, p. 12
- ^ a b 朝日新聞 1958, p. 11
- ^ 朝日新聞 1959, p. 9
- ^ 読売新聞 1959, p. 6
- ^ 読売新聞 1973, p. 12
- ^ 読売新聞 1974, p. 6
- ^ 読売新聞 1975, p. 6
- ^ スポニチアネックス 2009
- ^ 読売新聞 1983a, p. 16
- ^ 読売新聞 1983b, p. 9
- ^ a b 読売新聞 1997, p. 3
- ^ a b 朝日新聞 2000, p. 16
- ^ OBクラブ
- ^ 大東公園 2015
- ^ 雲南市 2015
- ^ 『経済時代 33(4)(409)』経済時代社、1968年4月、93頁。doi:10.11501/2203921 。2023年1月5日閲覧。
- ^ a b 『週刊ベースボール 38(4)(1385);1983・1・31』ベースボール・マガジン社、1983年1月、44頁。doi:10.11501/7909201 。2023年1月5日閲覧。
- ^ 『週刊ベースボール 32(6)(1026);1977・2・14』ベースボール・マガジン社、1977年2月、56-61頁。doi:10.11501/7908842 。2023年1月7日閲覧。
- ^ 『週刊ベースボール 25(25)(645);1970・6・29』ベースボール・マガジン社、1970年6月、107頁。doi:10.11501/7908460 。2023年1月5日閲覧。
参考文献
[編集]新聞記事
[編集]朝日新聞 - 聞蔵IIビジュアルにて確認
- “石和が優勝 秋の高校野球”. 朝日新聞 山梨版. (1958年10月25日)
- “秋季 県下高校野球ひらく”. 朝日新聞 栃木版. (1958年10月20日)
- “国体秋季大会 最終日 天皇杯で5位を占む 高校野球は総合1位”. 朝日新聞 栃木版. (1958年10月24日)
- “作新、矢板で決勝 秋期県下高校野球”. 朝日新聞 栃木版. (1958年10月28日)
- “秋季高校野球 矢板の善戦空しく”. 朝日新聞 栃木版. (1958年10月29日)
- “作新、木更津一に大勝 秋の関東高校野球 あす土浦三と対戦”. 朝日新聞 栃木版. (1958年11月2日)
- “作新、土浦三に大勝 秋の関東高校野球 長短打十六本浴せる”. 朝日新聞 栃木版. (1958年11月5日)
- “作新、優勝に輝く 秋の関東高校野球 石和を一点差で破り”. 朝日新聞 栃木版. (1958年11月7日)
- “作新学院、出場を辞退 選抜野球 部員の暴行事件で_野球”. 朝日新聞 東京版朝刊. (1959年11月23日)
- “作新学院に試合禁止_野球”. 朝日新聞 東京版朝刊. (1959年2月5日)
- “プロ行くで!ボーイズ兵庫尼崎:1(野球新世紀 第3部)”. 朝日新聞 朝刊. (2000年6月20日)
読売新聞 - ヨミダス歴史館にて確認
- “阪急、2選手と契約”. 読売新聞 朝刊. (1959年11月12日)
- “1973年度プロ野球選手一覧表 パシフィック”. 読売新聞 朝刊. (1973年3月12日)
- “1974年度・プロ野球選手一覧表 パシフィック”. 読売新聞 夕刊. (1974年3月12日)
- “2軍投手コーチ中原 阪急の新首脳陣”. 読売新聞 朝刊. (1975年11月28日)
- “阪急・島谷ら3選手が2軍コーチに就任”. 読売新聞 朝刊. (1982年11月13日)
- “プロ野球選手名鑑 パ・リーグ”. 読売新聞 夕刊. (1983年3月3日)
- “[チャレンジ83]江夏・日本ハム 西武に“借り”返すゼ”. 読売新聞 朝刊. (1993年2月8日)
- “球春、少年野球にも プロの技術を君に伝授 往年の名選手らが指導”. 読売新聞 大阪版夕刊. (1997年2月3日)
書籍
[編集]- 完全版 プロ野球人国記. 関東編 その2. ベースボール・マガジン社. (2004-03-10). ISBN 4-583-03786-4
ウェブサイト
[編集]- “第21回ダイワハウス全国少年少女野球教室”. facebook. 島根県雲南市役所 (2015年5月10日). 2019年2月15日閲覧。
- “日めくりプロ野球 1月 【1月26日】1975年(昭50) 222勝右腕よりスゴイ!剛速球山口高志、3球で「モノが違うで」”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. 2021年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月2日閲覧。
- “元プロ野球選手に教えてもらえる野球教室を大東で開催!!”. 大東公園市民体育館ブログ. 大東公園市民体育館 (2015年5月23日). 2019年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月15日閲覧。
- “日本プロ野球OBクラブ ホームページ”. 公益社団法人全国野球振興会 日本プロ野球OBクラブ. 日本プロ野球OBクラブ. 2019年2月15日閲覧。
- “宝くじスポーツフェア ふれあいベースボールフェスティバルinしおや”. OBクラブ野球教室~開催レポート~. 日本プロ野球OBクラブ (2003年6月7日). 2019年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月2日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 斎藤克男 - NPB.jp 日本野球機構