日本産業対抗野球大会
競技 | 野球 |
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開始年 | 1951年 |
終了年 | 1973年 |
主催 | 日本社会人野球協会 |
チーム数 | 24~15チーム |
加盟国 | 日本 |
最多優勝 | 熊谷組(4回) |
日本産業対抗野球大会(にほんさんぎょうたいこうやきゅうたいかい、通称サンベツ)は、1951年から1973年にかけて後楽園球場で秋季に開催されていた社会人野球のトーナメント大会。
概要
[編集]社会人野球において、夏季に開催される都市対抗野球大会が地域を代表するチームの大会ならば、産業対抗野球大会は業種を代表するチームの大会と位置づけられた。
もともとは、戦前から戦後にかけて行われていた「鉄道野球大会」(全国29チームの鉄道管理局野球部が優勝を争う大会)に追随するように、1947年には日本炭鉱協会が中心となって21チームで炭鉱野球大会がスタート。その後鉄鋼大会、電機大会、自動車大会などといった各職種別の野球コンクールが林立するように開催されるようになり、純粋に「どの業種が一番強いのか」という興味や、日本産業のさらなる発展を後押しするように、全国大会を求める機運が高まり、1951年に第1回大会が開催された。
しかし、高度経済成長時代が終りに近づくとともに同大会の存在意義は薄れていき、1973年を最後に終了し翌1974年からは関西で開催される社会人野球日本選手権大会へと移行した。複数のチームをもつ企業(新日本製鐵など)が「全○○」と合同チームを編成して出場したり、都市対抗野球と同様に補強選手制度を導入したりしていたため[1]、単独チームで覇を競う大会を望む声が年を追うごとに強くなったのも、日本選手権への発展的解消を後押ししたとされる。
日本プロ野球(NPB)がドラフト制度を導入する1965年まで、都市対抗野球が1年の締めくくりの大会とされていた関係上、この大会は新チームで迎える最初の大きな大会と位置づけられていた。
大会の初期には、立正佼成会(本大会のみならず都市対抗野球大会にも出場を果たしたが、1967年限りで活動終了)、PL教団(本大会出場も、都市対抗出場も果たせないまま1963年限りで活動終了)[2]といった新宗教団体の硬式野球部やキャバレーの春美野球クラブ[3]が「百貨店・商業部門」に参加していた[4][5]。もっとも、大会に参加する業種は、経済情勢の変化に伴って入れ替わりながら徐々に減少。最後の大会に当たる第23回大会(1973年)では、18業種にまで集約されていた。
優勝旗は黒い鷲が刺繍されていて、都市対抗の黒獅子旗にならって黒鷲旗と呼ばれていた。
歴史
[編集]- 1951年 - 第1回大会が以下の22業種の代表チームが集まり開催。(後楽園球場のほか、武蔵野グリーンパーク野球場も会場となった。また、第3回大会では川崎球場も会場となった。)
- 1952年 - 百貨店と商業が統合、機械から自動車が分離して産業機械と自動車、化学ゴムからゴム皮革が分離、官業公社から専売が分離して24部門となる。
- 1956年 - 専売が官業公社に吸収、代わりに電電が分離して24部門は維持。
- 1957年 - ゴム皮革が化学工業に吸収、映画演劇が消滅して日本コロムビアは電気機械部門に移動し、22部門となる。このかたちが1968年まで維持された。
- 1969年 - 綿紡績部門が消滅、21部門になる。
- 1971年 - 日程の問題からいくつかの部門で代表をしぼる。石油と電力ガス、紙パルプと化学繊維、建設と鉄道運輸、醸造食品と官業公社が、それぞれの代表で本大会出場決定戦を行った。化学肥料部門と炭鉱部門は消滅。その結果、19部門15代表で争った。
- 1972年 - 醸造食品部門が百貨店商業部門に統合され18部門となる。大会は各部門から代表が選出され18チームで争った。
- 1973年 - 第23回大会をもって終了。
歴代の優勝チームと最高殊勲選手
[編集]回 | 年 | 参加チーム数 | 優勝チーム | 業種 | 最高殊勲選手 |
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1 | 1951 | 22 | 鐘淵化学 | 化学・ゴム工業 | 河田清(外) |
2 | 1952 | 24 | 全藤倉 | 金属鉱工業 | 米久保庄(内) |
3 | 1953 | 24 | 熊谷組 | 建設 | 滝峠英明(内) |
4 | 1954 | 23[6] | 大昭和製紙 | 紙・パルプ・新聞通信 | 北川桂太郎(内) |
5 | 1955 | 24 | トキコ | 産業機械 | 久保吾一(内) |
6 | 1956 | 24 | 熊谷組 | 建設 | 吉田嘉直(内) |
7 | 1957 | 22 | 丸善石油 | 石油 | 堀田一雄(捕) |
8 | 1958 | 22 | 日鉄二瀬 | 炭鉱 | 大原博志(内) |
9 | 1959 | 21[7] | 倉敷レイヨン | 化学繊維 | 隅三次(内) |
10 | 1960 | 21[7] | 日本鋼管 | 鉄鋼 | 池田英俊(投) |
11 | 1961 | 20[8] | 熊谷組 | 建設 | 島津四郎(投) |
12 | 1962 | 21[9] | 日本生命 | 金融 | 角淳三(外) |
13 | 1963 | 22 | 熊谷組 | 建設 | 藤津靖雄(投) |
14 | 1964 | 22 | 大昭和製紙 | 紙・パルプ | 尾関達三(内) |
15 | 1965 | 21[10] | 日本石油 | 石油 | 三浦健二(投) |
16 | 1966 | 22 | 全鐘紡 | 綿紡績 | 海老原丘(外) |
17 | 1967 | 22 | 日産自動車 | 自動車 | 斉藤征夫(投) |
18 | 1968 | 22 | 全鐘紡 | 綿紡績 | 藤原真(投) |
19 | 1969 | 21 | 北海道拓殖銀行 | 金融 | 小弓場保(投) |
20 | 1970 | 21 | 丸善石油 | 石油 | 渡辺憲彦(外) |
21 | 1971 | 15 | 全大昭和製紙 | 紙・パルプ | 小田義人(内) |
22 | 1972 | 18 | 日本石油 | 石油 | 五月女豊(投) |
23 | 1973 | 18 | エアロマスター | 百貨店・商業 | 平井信司(内) |
産業対抗には出場したが都市対抗本大会には出場できなかったチーム
[編集]- 明治座(映画演劇・東京都)
- 馬渕建設(建設・横須賀市)
- キリンビール(醸造食品・横浜市)
- 明電舎(電気機械・東京都)
- 明利酒類(醸造食品・水戸市)
- 北炭夕張(炭鉱・夕張市)
- 石川島播磨(造船・東京都)
- 北洋水産(百貨店商業・東京都)
- 東黎工業(産業機械・東京都)
- 岩崎電気(電気機械・行田市)
- 相模原市役所(官業公社・相模原市)
- ヤシカ(産業機械・諏訪市)
- トウトク(金属鉱工業・丸子町)
- 日本カーバイド(化学肥料・魚津市)
- 金指造船(造船・清水市)
- 辻和(百貨店商業・京都市)
- 京都市役所(官業公社・京都市)
- 大日本製薬(百貨店商業・大阪市)
- 高島屋(百貨店商業・大阪市)
- 大阪ダイハツ(自動車・大阪市)
- エアロマスター[11](百貨店商業・大阪市)
- 春美クラブ(百貨店商業・尼崎市)
- 石川島播磨兵庫(造船・相生市)
- 山陽電軌(鉄道運輸・下関市)
- ブリヂストンタイヤ(化学工業・久留米市)
- 三井田川(炭鉱・田川市)
- 日鉄嘉穂(炭鉱・嘉穂町)
- 三菱化成(化学肥料・北九州市)
- 陸上自衛隊西部(官業公社・三田川町)
注釈
[編集]- ^ ただし、都市対抗とは異なり、補強選手は同業他社から迎えた。第19回大会で優勝した北海道拓殖銀行から最高殊勲選手に選出された小弓場保選手は同じ金融部門の日本生命所属であった。小弓場は都市対抗でも同地区の電電近畿に補強されて橋戸賞を受賞している。
- ^ 柳川悠二『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』(2017年1月30日初版刊行、小学館)第1章「PL野球部の誕生」pp.46 - 47に記載の井元俊秀(PL教団の職員やPL学園高等学校硬式野球部の監督などを歴任)による証言を参照。井元によれば、PL教団がこの大会に参加したのは立正佼成会からの対抗意識からで、同校を指導する人材の育成も兼ねていたという。
- ^ 阪神尼崎駅近くの尼崎中央商店街にあった。1957年頃に閉店。当時、野球好きのオーナーが引退直後の元プロ選手丸山二三雄などを集めて結成したという。
- ^ 日刊スポーツ連載コラム『野球の国から』、「社会人野球今昔 尼崎キャバレー野球団」(大阪本社版2019年6月25日 - 29日)。キャバレー春美はチーム名「春美クラブ」として、第2回大会で「百貨店・商業部門」代表として出場(部門予選で優勝した北海道農協連棄権による代替出場)。
- ^ “店の娘に手ぇつけたらあかん/社会人野球今昔”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2019年6月27日) 2019年6月30日閲覧。
- ^ 金融部門が不参加
- ^ a b 炭鉱部門が不参加
- ^ 炭鉱部門と化学繊維部門が不参加
- ^ 国鉄部門が不参加
- ^ 化学繊維部門が不参加
- ^ 当時の文献で「初出場」とされているのでここに分類した。前身の日本熱学は都市対抗に出場している。
参考文献
[編集]- グランドスラム22号(2003年11月発行;小学館)
- 日本野球連盟50年史【1949‐1998】(1999年7月発行;日本野球連盟)
- 第2回全日本アマチュア野球王座決定戦プログラム(1992年11月発行;日本野球連盟・全日本大学野球連盟)
- JABAデジタルミュージアム[1]