斎辰雄
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選手情報 | ||||
ラテン文字 | Tatsuo TOKI [1] | |||
国籍 | 日本 | |||
競技 | 陸上競技 | |||
種目 | 十種競技 | |||
所属 | 常盤生命 | |||
生年月日 | 1904年3月31日 | |||
没年月日 | 1967年10月26日(63歳没) | |||
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斎 辰雄(とき たつお、1904年3月31日 - 1967年10月26日)は、日本の陸上競技選手・指導者。1928年アムステルダムオリンピックに十種競技で出場。
1950年代より中京大学で教育に携わり、のちに体育学部長を務めた。スポーツを墨絵で表現することにも取り組み、「スポーツ墨絵の創始者」との評がある[2]。
経歴
[編集]徳島県那賀郡今津村(現在の阿南市)出身[注釈 1]。旧制富岡中学校(現在の徳島県立富岡西高等学校)在学中に砲丸投、円盤投を始める。
三重高等農林学校(現在の三重大学)卒業後は名古屋で教員となり、1928年に日本陸上競技選手権大会の男子十種競技で優勝する。1928年のアムステルダムオリンピックでは12位に終わった(当時は名古屋育英商業学校[注釈 2]の教員 [1])。その後1932年までの間、日本選手権で十種競技五連覇を達成する(1928年から1930年までの所属は「名古屋教員」、1931年・1932年の所属は「常盤生命」)。
その後は陸上の指導者として活躍。1939年に開催された日満華交歓競技大会では、「満洲国」代表チームの監督を務める[4]:56。
徳島新聞の総務局長などを務めた[5]。1952年より中京大学での教育に携わり[5]、1963年には中京大学体育学部の学部長に就任した。1967年、癌のため死去した。
スポーツ墨絵
[編集]斎は「スポーツ墨絵の創始者」とも評され[2]、「スポーツ墨画家」とも紹介される[6]。50歳頃より、スポーツを墨絵で表現することに情熱を注いだ[5]。
名古屋市営地下鉄桜通線瑞穂運動場西駅には斎の手掛けた壁画「躍動 走・跳・投」がある[7]。
著書
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “Japanese Delegation of Athletics Team : Rio de Janeiro 2016” (PDF). 日本陸上連盟. p. 38 (2016年). 2020年11月3日閲覧。
- ^ a b “博物館が第58回特別講演会を開催”. 名大トピックス No.160. p. 27 (2006年9月). 2020年11月1日閲覧。
- ^ “第41回 「金城商業」最後の卒業アルバム”. 学校法人東邦学園 (2018年9月26日). 2020年11月4日閲覧。
- ^ 高嶋航「戦時下の平和の祭典 - 幻の東京オリンピックと極東スポーツ界 -」『京都大學文學部研究紀要』第49号、2010年、2019年10月9日閲覧。
- ^ a b c 來田享子 (2014年1月9日). “みんなにオリンピアンの可能性”. 中京大学スポーツ. 2020年11月1日閲覧。
- ^ “巡回展事業”. 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館. 2020年11月2日閲覧。
- ^ “名古屋・鉄道散歩(8)地下鉄桜通線瑞穂運動場西駅”. 稲見駅長の鉄道だよ人生は!!. 中京テレビ (2012年7月27日). 2020年11月2日閲覧。