竹内廣三郎
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選手情報 | ||||
フルネーム | 竹内 廣三郎 | |||
ラテン文字 | TAKENOUCHI Hirosaburo | |||
国籍 | 日本 | |||
種目 | 十種競技 | |||
大学 | 東京高等師範学校 | |||
生年月日 | 1891年 | |||
生誕地 | 滋賀県[1] | |||
没年月日 | 1931年2月24日(40歳没) | |||
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竹内 廣三郎(竹内 広三郎、たけのうち ひろさぶろう、1891年 - 1931年2月24日)は、滋賀県出身の陸上競技選手・指導者、サッカー選手。
経歴
[編集]滋賀師範学校を経て、東京高等師範学校に進学。東京高師在学中は陸上・十種競技の選手として第3回および第4回の極東選手権競技大会に出場した他、1917年および1918年の日本陸上競技選手権大会で2年連続優勝した。
また、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)にも所属し、1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、主将として2試合に出場した[2]。
東京高師を卒業後、愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)教諭、京都師範学校教諭や大阪体育協会の主事などを歴任。1924年に大阪毎日新聞からの依頼でパリ五輪のサッカーの取材を行った。1928年アムステルダムオリンピックでは陸上競技チームの総監督を務めた。
1930年冬より風邪で療養していたが、1931年2月24日に死去した[3]。
所属クラブ
[編集]サッカー代表歴
[編集]出場大会
[編集]- 1917年:極東選手権競技大会サッカー競技
試合数
[編集]- 2試合 0得点 (1917)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1917 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
著書
[編集]- 『芬蘭のランニング』廣文堂、1926年1月。