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武井群嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武井 群嗣
名前
カタカナ タケイ グンジ
ラテン文字 TAKEI Gunji
基本情報
生年月日 1889年9月17日
大日本帝国の旗 大日本帝国群馬県[1]
没年月日 (1965-01-26) 1965年1月26日(75歳没)[2]
日本の旗 日本東京都品川区
選手情報
ポジション FB
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
群馬師範学校
19xx-1916 東京高等師範学校
代表歴
1917 日本の旗 日本[3] 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

武井 群嗣(たけい ぐんじ、1889年明治22年〉9月17日[4] - 1965年昭和40年〉1月26日[2])は、群馬県出身の内務厚生官僚国会職員。官選県知事厚生次官

経歴

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武井捨五郎の二男として生まれる[4]群馬師範学校を経て、東京高等師範学校に入学[1]。在学時は蹴球部に所属し、1916年3月に東京高師を卒業した。

1917年5月に開催された第3回極東選手権競技大会日本代表佐々木等藤井春吉らと共に選出され、2試合に出場した[5]

1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年京都帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し衛生局属となる[4][6][7]

以後、東京都事務官、内務事務官、内務省土木局道路課長、同河川課長[4][6]神奈川県高座郡長[8]などを歴任。

1936年10月、山形県知事に就任[6]1939年4月、山口県知事に転任。旱害・水害の対策、教育是の制定、山口県立女子専門学校の設立などに尽力。1941年8月、厚生省人口局長に転じた。同年11月、厚生次官に任じられ1944年4月まで在任し退官。戦災援護会理事長、済生会理事長に就任[4][7]。戦後、公職追放となった[7][9]

1950年参議院常任委員会専門員に就任。以後、済生会理事長、全国防災協会副会長、同最高顧問を務めた[4][2]

1965年1月26日東京都品川区パーキンソン病により死去した[2]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 2試合 0得点(1917)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1917 0 0 2 0 2 0
通算 0 0 2 0 2 0

著作

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  • 『土地収用法』武井群嗣、[出版年不詳]。
  • 『海の彼方を』目黒書店、1926年。
  • 『土木行政要義』〈第1編 (道路及道路交通)〉良書普及会、1928年。
  • 『比較水法論』常磐書房、1936年。
  • 『厚生省小史:私の在勤録から』厚生問題研究会、1952年。
  • 田中好共著『土木行政』常磐書房、1935年。
  • 安田正鷹共編『水に関する学説判例実例総覧』松山房、1931年。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b 東京高等師範学校一覧 大正10年度 (p.七八ノ六六) 2016年10月2日閲覧
  2. ^ a b c d 『朝日新聞』(東京本社発行)1965年1月28日朝刊(13面)、2014年7月10日閲覧
  3. ^ 日本代表 試合別出場記録
  4. ^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』861頁。
  5. ^ 第3回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2014年7月10日閲覧。
  6. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』200頁。
  7. ^ a b c 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』225頁。
  8. ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983, 付表51頁.
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、635頁。公職追放の該当事項は「翼賛山口県支部長」。氏名は「武井嗣」と表記されている。
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年。 
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

関連項目

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