中川望
中川望 なかがわ のぞむ | |
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生年月日 | 1875年3月15日 |
出生地 | 日本 宮城県 |
没年月日 | 1964年4月1日(89歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業 |
前職 | 内務省衛生局長 |
現職 | 枢密顧問官 |
所属政党 | 同和会 |
称号 | 旭日中綬章 |
親族 | 義父・大森鍾一(貴族院議員) |
在任期間 | 1939年8月28日 - 1947年1月23日 |
官選 第19代 大阪府知事 | |
在任期間 | 1923年9月29日 - 1927年5月17日 |
官選 第12代 鹿児島県知事 | |
在任期間 | 1921年12月24日 - 1923年9月29日 |
官選 第14代 山口県知事 | |
在任期間 | 1917年12月17日 - 1921年12月24日 |
中川 望(なかがわ のぞむ、1875年(明治8年)3月15日 - 1964年(昭和39年)4月1日[1])は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。
経歴
[編集]宮城県出身。仙台藩士・中川操吉の二男として生まれる。第二高等学校を経て、1901年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し内務属・総務局文書課兼地方局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。
1903年7月、福島県参事官に就任。以後、兵庫県参事官、内務省参事官・衛生局保健課長、地方局市町村課長、埼玉県内務部長などを歴任。1909年12月から1911年2月まで欧米へ出張した。
1913年1月、地方局府県課長兼市町村課長となり、神奈川県内務部長、内務省衛生局長を務めた。1917年12月、山口県知事に発令され、鹿児島県知事を経て、1923年9月、大阪府知事に就任。1926年11月、松島遊郭疑獄に関して大阪地方裁判所検事局から予審尋問を受けた。1927年5月17日に依願免本官となる[2]。
1929年7月、内務省復興局長官に就任し、1930年4月、復興局の改組に伴い廃官となる。1932年2月、日本赤十字社副社長となり1946年6月まで在任。1932年9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[3]。1939年8月28日に貴族院勅選議員に任じられ[4][5]、同和会に属し1947年(昭和22年)1月23日まで在任[1][6]。同年同月、枢密顧問官に任命されたが、同年5月に枢密院が廃止され失職した。
中川望は正教徒であった。1929年12月15日、関東大震災で被災したニコライ堂の復興成聖式に(個人資格で)参加したことが記録に残されている[7]。
栄典
[編集]- 1916年(大正5年)1月19日 - 勲四等旭日小綬章[8]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日中綬章[9]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[10]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[11]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
親族
[編集]著作
[編集]- 『優良村巡り - 自治講話』洛陽堂、1914年。
脚注
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』145頁。
- ^ 『官報』第113号、昭和2年5月18日。
- ^ 『官報』第1725号、昭和7年9月28日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、47頁。
- ^ 『官報』第3795号、昭和14年8月29日。
- ^ 『官報』第6010号、昭和22年1月28日。
- ^ 府主教セルギイ著、府主教ダニエル監修『東京復活大聖堂と関東大震災』61頁、正教時報社 2002年12月25日 第1刷
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ 『官報』号外「辞令」1922年6月22日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。