新井晴簡
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生誕 |
1853年7月30日 但馬国(兵庫県) |
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死没 | 1906年5月17日(52歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1873年 - 1906年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
下関要塞司令官 野戦砲兵第1旅団長 対馬警備隊司令官 |
新井 晴簡(あらい せいかん、1853年7月30日(嘉永6年6月25日[1]) - 1906年(明治39年)5月17日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。フランスに留学した[3]。
経歴
[編集]豊岡藩士・新井晴景の長男として生まれる[1]。明治3年(1870年)陸軍兵学寮に入り、1873年(明治6年)2月、砲兵少尉に任官[1][3]。1877年(明治10年)東京鎮台砲兵第1大隊第2小隊長として西南戦争に従軍し、別働第2旅団に所属した[1]。
1890年(明治23年)10月、要塞砲兵幹部練習所長代理となり、要塞砲兵第1連隊長、砲兵第2方面本署長を歴任し、1895年(明治28年)1月、砲兵大佐に昇進[3]。同年2月、臨時徒歩砲兵第1連隊長に発令され日清戦争に従軍した[1]。同年8月、陸軍砲工学校長に就任し、陸軍省人事課長、下関要塞司令官[2]を経て、1898年(明治31年)10月、陸軍少将に進級[3]。
1899年(明治32年)3月、対馬警備隊司令官となり、同年10月、野戦砲兵第1旅団長に異動[2][3]。1901年(明治34年)6月、二度目の下関要塞司令官に就任し、1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進んだ[2][3]。同年10月、二度目の砲工学校長に就任し[2]、1906年(明治39年)3月12日、予備役となり[4]、同年6月、後備役に編入された。
1907年(明治40年)10月2日、その功績により子息の新井清一が男爵の爵位を授爵し華族となった[1][3]。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。