新田長三
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新田 長三[1](にった ちょうぞう、1888年(明治21年)9月2日[2] - 1964年(昭和39年)11月18日[3])は、日本の実業家、資産家[4][5][6]。新田帯革製造所(現・ニッタ)社長[1]。大阪工業会理事[1]。父は新田帯革製造所創業者の新田長次郎。
経歴
[編集]大阪府出身[7]。新田長次郎の二男[5][6][8]、あるいは三男[1][4][7][9][10][11]。母ツルは大阪府人・井上儀助の二女[8]。
1900年、泊園書院に入塾[12]、1921年、分家する[5]。新田帯革製造所、新田ベニヤ製造所出資社員となる[4]。1923年、欧米各国を巡歴する[7]。新田帯革製造所、新田護謨工業各社長をつとめる[7]。松山商科大学監事に挙げられる[1]。
人物
[編集]新田利一、新田宗一の弟[8][10]。資産家の新田利國は兄・利一の息子[8][10]。新田昌次、新田ベニヤ工業社長新田愛祐の兄。
会社重役である[10]。宗教は真言宗[7][9][10]。住所は大阪市浪速区芦原町[4][9][10]、堺市出島浜通[1][7]、兵庫県西宮市上甲東園1丁目[13]。
資産家として知られる[4][5]。1935年に出版された『実業の世界 32(4)4月号』によると、「長三は大阪市浪速区芦原町に宅地817坪72を持っている。」という[11]。
家族・親族
[編集]- 新田家
- 妻・キヌ(1896年 - ?、東京士族、早田喜稔の妹)[9][10]
- 男・長夫[10](1914年 - 2005年)
- 同妻(東京、須賀英二郎の三女)[7]
- 長女[7]
- 二女(李家孝の長男の妻)
- 二男[9][10]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『財界家系図』282 - 283頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月2日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第22版 下』人事興信所、1964年、に11頁。
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、948頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』ニ9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月21日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第7版』に6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月30日閲覧。
- ^ a b 『昭和人名辞典』ニ8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第15版 下』二3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月6日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第6版』に6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月30日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 下』ニ10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第14版 下』ニ10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月30日閲覧。
- ^ a b 『実業の世界 32(4)4月号』69 - 71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月2日閲覧。
- ^ 『泊園書院に学んだ実業家たち 東畡・南岳叙位祝賀会の発起人に着目して』340頁。
- ^ 『税務署が作った名士信用録 東京・大阪・名古屋 1962』大阪338頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月31日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『昭和人名辞典』光人社、1933年。
- 『実業の世界 32(4)4月号』実業之世界社、1935年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 『財界家系図』人事興信所、1956年。
- 『税務署が作った名士信用録 東京・大阪・名古屋 1962』エヌピー通信社、1962年。