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新見映郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
にいみ えいろう
新見 映郎
本名 中根 十太郎 (なかね じゅうたろう)
生年月日 (1903-07-30) 1903年7月30日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 福岡県三池郡三池町(現在の大牟田市三池地区
職業 俳優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1937年
主な作品
心中宵待草
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新見 映郎(にいみ えいろう、1903年7月30日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名中根 十太郎(なかね じゅうたろう)[1]

人物・来歴

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1903年明治36年)7月30日福岡県三池郡三池町(現在の大牟田市三池地区)に生まれる[1]。地元の旧制中学校(現在の高等学校に当たる)を卒業、筑後新聞(現在の島原新聞)に入社して文芸部で記者を務め、1917年(大正6年)3月1日に市制を施行した大牟田市役所に勤務した[1]。その間も俳優を志望しており、そのために数回家出を繰り返したとのことである[1]

1924年(大正13年)、脚本家寿々喜多呂九平の推薦を得て、牧野省三マキノ映画製作所に入社、同年4月25日に公開された、寿々喜多脚本、二川文太郎監督、市川幡谷主演による剣戟映画情熱の火』に「新見 映郎」の名で出演して、満20歳で映画界にデビューする[1]。同社は同年6月、前年の暮れに設立され、兵庫県西宮市甲陽園甲陽撮影所を買収して製作を開始した東亜キネマからの合併交渉を受諾、マキノ等持院撮影所は東亜キネマ等持院撮影所と名称を変更、牧野省三は同撮影所長となる[2][5]。新見は引き続き同撮影所に所属し、三枚目役者として映画に出演する[1][2]。翌1925年(大正14年)に入ると、所内の反東亜キネマ派の反発を受けて、同所は呼称を「東亜マキノ等持院撮影所」と変更、同年6月には、牧野省三は東亜キネマから独立し、マキノ・プロダクションを興し、御室に撮影所を新設するが、新見は当初、東亜キネマに残留する[1][2][5]。1926年(昭和元年)末、高木新平とともに同社を退社、高木が立ち上げた高木新平プロダクションに参加するが、新見の出演作は不明であり、同社は1927年(昭和2年)末に解散し、高木とともにマキノ・プロダクションに移籍した[1][2][6]

1929年(昭和4年)7月25日、マキノ・プロダクションの牧野省三が死去し[7]、長男のマキノ正博がこれを継承したが、同社は1931年(昭和6年)4月24日に公開された『京小唄柳さくら』を最後に製作を停止するが、新見はこれに出演している[1][2]。正確な時期は不明であるが、その後のある時点で同社を退社、かつてマキノ映画製作所が築いた等持院撮影所を使用する新会社、東活映画社(東活)に移籍、1932年(昭和7年)5月29日に公開された井出錦之助監督の『黒い旋風』に出演している[1][2]。東活は同年10月に解散したため、新見は、帝国キネマ演芸を改組した新会社、新興キネマに移籍する[1][2]。その後、マキノ正博が新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所の最末期である1936年(昭和11年)末に、数作出演しているが、翌1937年(昭和12年)4月の同社解散以降、新見の出演記録は見当たらない[1][2][8]没年不詳

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。公開日の右側には役名を記す[2][3][4]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

東亜キネマ等持院撮影所

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特筆以外すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」である[2]。特筆した「マキノ等持院撮影所」、「東亜マキノ等持院撮影所」とは、実質「東亜キネマ等持院撮影所」と同一であり、名称・呼称を変更したものである。

マキノ・プロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」である[2]

東活映画社

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すべて製作・配給は「東活映画社」である[2]

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」である[2]。後半の「新興キネマ京都撮影所」とは、従来の「新興キネマ」と同一であり、「新興キネマ東京撮影所」新設により名称を変更したものである。

新興キネマ
新興キネマ京都撮影所

マキノトーキー製作所

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特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n キネマ旬報社[1979], p.436.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 新見映郎日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。
  3. ^ a b c 新見映郎、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月10日閲覧。
  4. ^ a b c d e 新見映郎日活データベース、2012年12月10日閲覧。
  5. ^ a b 等持院撮影所立命館大学、2012年12月10日閲覧。
  6. ^ 高木新平 - 日本映画データベース、2012年12月10日閲覧。
  7. ^ 朝日日本歴史人物事典『牧野省三』 - コトバンク、2012年12月10日閲覧。
  8. ^ マキノ[1977]、p.338-374.
  9. ^ a b c d e f g 新見映郎、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月10日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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