日支闘争計画
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日支闘争計画(にっしとうそうけいかく)とは、日本と支那(中華民国)を争わせ、世界戦争を誘発して日本を包囲殲滅する計画と言われるもの。コミンテルン(国際共産党、第三インターナショナル)によって考案され、コミンテルンに指導された勢力ー中国共産党[1]、日本軍部の統制派[2][3]、太平洋問題調査会(IPR)[4]などによって実行されたとする見解もある。
概要
[編集]1918年(大正7年)9月、モスクワにおいてボリシェビキの会議が開かれ、日支闘争計画案が決議された[4]。その内容は、直ちに日本と中国との内部破壊を図るとともに、中国に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともに欧州に社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画するというものであった。
「この計画案通りに、大日本帝国は日中戦争、太平洋戦争へと導かれ、滅亡した」と、この説は渡部梯治によって紹介された。
日支闘争計画の実行機関、太平洋問題調査会(IPR)
[編集]IPRは1925年(大正14年)に設立されたロックフェラー主催の民間機関である。日本代表は新渡戸稲造・松岡洋右・鶴見祐輔らであり、幹事長は斉藤惣一(日本YMCA同盟総主事)であった。第3回会議は1929年(昭和4年)10月、京都で開催され、アーノルド・J・トインビーやジョン・ロックフェラー三世らが出席した。米国代表はオーエン・ラティモアであった。日本からは西園寺公一らが参画した。1936年(昭和11年)7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会には牛場友彦、尾崎秀実らも参画した。リヒャルト・ゾルゲ、原田熊雄らもこのラインにつながっていた[4][5]。
レーニンの敗戦革命論
[編集]敗戦革命論とは、軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論[6]。パリコミューンおよび帝政の倒れたロシア革命やドイツ革命のように、対外戦争を内乱に転化する、即ち戦争や内乱・騒擾などによる自国の混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させることを目指すもので、後のコミンテルン第六回大会や第7回コミンテルン世界大会でも採用された。これには人民戦線戦術や扇動などを用いた政策の誘導や妨害(一例として戦争当事国における開戦後の反戦運動)も含まれる。 1920年(大正9年)レーニンはモスクワ共産党細胞書記長会議で次のように述べた[2]。
全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互にかみ合すことである。われわれが全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまなければならない
コミンテルン1928年テーゼ
[編集]1928年(昭和3年)のコミンテルン第六回大会に於て採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」より抜粋する[2]。
多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争において決定的な意義を有する軍隊に充分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか又はプロレタリア的であるかにある
「日本の陸軍は、殆んど大部分が貧農と小市民、勤労階級の子弟によって構成されている。将校も大多数が中産階級以下の出身者である、従ってその社会環境と思想傾向は、反ブルジョア的だ。だからこの陸軍を背景とした所謂国家革新運動は反資本主義的である。」このことをコミンテルンは見抜いた[2]。
現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊化する傾向が増大して来ている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない
1930年代はじめの上海で中国共産党員の指導する「日支闘争同盟」は、日本海軍の艦艇乗組員に対する反戦ビラの配布[7]もおこない、日本人民解放連盟は日本兵捕虜に対し共産主義思想の植え付けと敗戦革命を狙った思想改造(階級闘争と自己批判に基づく洗脳)を施した。またこの方針は、戦後のシベリア抑留や撫順戦犯管理所にも引き継がれている。
コミンテルン指令1931年
[編集]満州事変(柳条湖事件)の勃発した1931年(昭和6年)、コミンテルンは日本及び中国の共産党に対し、次の指示を出した[4]。
日本と中国の対立を利用して、中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、それによって日本の革命を進めるとともに、中国内部をも改革する。来たるべき第二次世界大戦には間があるから、その間に共産革命の組織拡大を図ること。それにはまず全中国人民の抗日感情を煽り立てることが必要であり、それによって国民党と日本との妥協を不可能にする。国府軍と日本軍との衝突が避けられないものとなれば、次は戦線を華北から華南方面郎にまで発展させる。それだけで日本軍のソ連包囲態勢に楔がはいり、同時に中国共産党のためには、革命への客観的条件が準備されることになる。故に国府軍と日本軍との衝突の隙に乗じて、中共の発展を策すよう諸般の行動に移るべし。
コミンテルン指令1937年
[編集]1939年10月興亜院政務部(担当者は嘱託原口健三)が作成した、「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」「コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料」(極秘)という資料が残っている[4]。コミンテルンの指令の要旨は、
- あくまで局地解決を避け、日支全面衝突に導くこと(日中戦争および支那事変も参照)。
- あらゆる手段を利用し、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺すること(東亜新秩序#前史、藍衣社も参照)。
- 下層民衆を煽動して、国民政府を対日戦争開始に追い詰めること(人民戦線、策動、工作、排日・侮日、ネガティブ・キャンペーンも参照)。
- 対日ボイコットを拡大し、日本を援助する国はボイコットで威嚇すること(欧米の反応、ABCD包囲網、太平洋問題調査会も参照)。
- 紅軍は国民政府軍と協力(統一戦線即ち第二次国共合作)する一方、パルチザン的行動に出ること(共産軍の山西省攻撃)。
- 共産党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士及び大衆を獲得し(人民戦線戦術も参照)、国民を凌駕する党勢に達すること(敗戦革命戦略も参照)。
「中共党はこの指令に基づき、周恩来を蔣と会見させ、国共合作、紅軍改編を申入れたとしている」(西安事件)
尾崎秀実の謀略工作
[編集]1938年(昭和13年)コミンテルンのスパイ尾崎秀実とそのグループ(ゾルゲ諜報団)は、三田村武夫[2]によれば「日華事変を長期戦に追い込むために蔣介石との和平交渉を遮断する楔として日本のかいらい政権をつくらせる」目的で、汪兆銘工作を開始した(アクティブ・メジャーズも参照)。尾崎秀実の手記[8]より引用する。
さらに尾崎は対米英戦争長期化を目論んで、「東亜新秩序」建設を主張した。
私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを寵めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張される点であります。[8]
近衛上奏文
[編集]1943年(昭和18年)3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招き、後継首班を引き受けて「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請し、次のように述べた。
要するに軍の革新派は出先と結托して中央の指令に服せずドンドン事変を拡大する。一面政府が可成不拡大で行かふとする工作を妨げて一図に長期戦にして仕舞ひ、遂に対米、英戦に迄追ひ込んだ。しかも夫れが戦争が目的ではなく、戦争に籍口して我国の旧慣を破壊し、革命を具現せんとするのであるから、此一派の率ひる陸軍に諸政を牛耳られては国家の前途真に深憂に堪へぬ。翻って革新派の中核となって居る陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多い。荒木、真崎と云った皇道派の一党は手荒い所はあっても、所謂皇道派で国体を破壊する如き革新は考へて居らぬ。其云ふ所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為には手段を撰ばない。しかも次ぎ々々に後継者を養って行く。速かに之を粛清しないと危ぶないと思ふ。夫れから妙な事には、此革新派を牛耳る者が大分県人、大分閥が多いと云ふ事である。
[9]
1943年(昭和18年)4月、三田村武夫は荻外荘に近衛文麿公を訪れ、[2]
「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言ったところ、近衛はめづらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想し、
「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに到って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする」と述懐した。
1945年(昭和20年)2月14日、近衛は昭和天皇に拝謁し、近衛上奏文を捧呈、軍内部の共産主義者[10][11]の摘発と戦争の早期終結を訴えた[2]。
・・・つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。(中略)
抑々(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候。
是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。
(中略)
昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。
戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。
皇道派の理念とは「赤の排撃、ソ聯の警戒を根本的主張とし、支那事変の急速処理、南方進出の危険性、英米との開戦の不可を説くこと」であった[12]。
山口富永は皇道派を擁護して、次のように主張している[12]。
日本は大正末期から、コミンテルンの謀略の対象に晒され、支那事変後はナチスの謀略の対象となり、これらによって日本における全体主義思潮を煽り立てられたのであるが、ナチスの手先と思われていたソルゲ、尾崎秀実が結局はコミンテルンの手先であったのである。これらの思想が軍に浸透することを最も憂えたのが、皇道派である。その中心人物の真崎は、この謀略から必死に国軍を守ろうとしていたのである。全体主義の思想のもとに日本を戦争に引きずり込んだ統制派と、これと闘った皇道派の思想、戦略が昭和史の上に正しく検証されない限り、戦争に至った経過と、真の戦争責任を明確にすることはできないであろう。
猪木正道、立花隆、秦郁彦、半藤一利、保坂正康、澤地久枝らはこうした皇道派びいきの歴史観を批判している[12]。
岸信介の言葉
[編集]岸信介は三田村武夫の著書「大東亜戦争とスターリンの謀略」を読んで、次のような読後感を残している[2]。
(この本を)読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤羅々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない。
年表
[編集]1915年(民国4年、大正4年)
[編集]- レーニン著「社会主義と戦争」。
1917年(民国6年、大正6年)
[編集]- 2月23日 - ロシア革命勃発
1918年(民国7年、大正7年)
[編集]- 9月 - ボリシェヴィキ、日支闘争計画を決議。
1919年(民国8年、大正8年)
[編集]- 3月2日 - コミンテルン設立。
1920年(民国9年、大正9年)
[編集]- レーニンの敗戦革命論。二段階革命論も参照。
- 3月7日 - 尼港事件(5月まで)。シベリア出兵が長引いた一因。
- 4月6日 - 極東共和国建国
- 7月 - 第2回コミンテルン大会
- 9月1日から9月7日 - 東方諸民族大会。日本や中国から参加者あり。
- 9月12日,10月2日 - 琿春事件発生。背景に間島問題(満州事変の遠因)。
- 10月16日 - 琿春事件を受け間島出兵。
1921年(民国10年、大正10年)
[編集]- 4月21日 - 東方勤労者共産大学設立、日本や中国から留学者あり。
- 6月 - 第3回コミンテルン大会(統一戦線)
- 7月 - 上海にコミンテルン執行委員会国際連絡部設立。
- 7月23日 - コミンテルンの中国支部・中国共産党結成
- 8月14日 - トゥヴァ人民共和国成立。ただし、清代のロシアによる分離工作や1920年に共産軍が侵入した経緯から、中華民国は承認せず。
- 8月26日から1922年4月16日 - 日ソ、大連会議
1922年(民国11年、大正11年)
[編集]1924年(民国13年、大正13年)
[編集]- 1月20日 - 中国国民党第一回全国代表大会は国共合作の政策を採用(第一次国共合作)。
- 1月21日 - ソ連、レーニン死去、後継はスターリン
- 5月 - 中国、黄埔軍官学校設立。
- 9月20日 - 奉ソ協定締結。
- 11月26日 - 外蒙古にモンゴル人民共和国成立。ただし、中華民国はソ連の傀儡国家として独立を認めず、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。
1925年(民国14年、大正14年)
[編集]- 1月20日 - 日ソ基本条約締結
- 4月9日 - ソ連、第九十四号命令。後の中ソ紛争の一因。
- 4月17日 - 朝鮮共産党結成。1926年春に正式な共産党(コミンテルン支部)となった。
- 5月12日 - 日本、治安維持法施行。
- 5月30日 - 上海で五・三〇事件。背景にコミンテルンの扇動。
- 8月 - 中国、国民革命軍創設。
- 9月 - モスクワ中山大学設立。
1926年(民国15年、大正15年/昭和元年)
[編集]1927年(民国16年、昭和2年)
[編集]- 3月24日 - 南京事件 (1927年)発生。
- 4月3日 - 漢口事件
- 4月6日 - 3月の南京事件を受け、北京政府は北京のソ連大使館捜索
- 4月12日 - 上海クーデター後、第一次国共合作は事実上崩壊。南京国民政府の成立と寧漢分裂。中独合作も参照。
- 5月 - 上海租界で太平洋地域のプロフィンテルン支部(太平洋労働組合書記局)設立。
- 6月1日 - 3月の南京事件の教訓から、北伐軍の山東省接近を受け第一次山東出兵(9月8日まで)。
- 7月13日 - 国民党左派の武漢政府、中国共産党との絶縁を決定、国共合作終わる。国共内戦に突入。
- 8月1日 - 中国共産党が南昌で武装蜂起(南昌起義)。
- 8月2日 - 万県事件
- 8月7日 - 中共、八七会議
- 9月10日 - 中国共産党が湖南省や江西省の辺境地域で武装農民暴動を扇動(秋収起義)。
- 12月11日 - 中国共産党が広州で武装蜂起(広州起義)。
1928年(民国17年、昭和3年)
[編集]- 4月15日 - 台湾共産党結成。日本共産党の台湾支部。
- 4月20日 - 北伐軍の山東省接近を受け第二次山東出兵
- 5月3日 - 済南事件
- 5月9日 - 済南事件を受け第三次山東出兵(1929年4月撤兵)
- 6月4日 - 満洲某重大事件。日本では定説ではないが、海外には張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説もある。
- 7月17日から9月1日 - 第6回コミンテルン大会とコミンテルン1928年テーゼ。
1929年(民国18年、昭和4年)
[編集]- 7月14日 - 中ソ紛争勃発(同年12月まで)。
1930年(民国19年、昭和5年)
[編集]- ソ連のスパイ・リヒャルト・ゾルゲ、1932年まで上海で活動。尾崎秀実や川合貞吉らも参加するゾルゲ諜報団結成(獲得工作も参照)。
- 5月30日 - 間島共産党暴動。満州事変の一因。
- 7月29日 - 上海にコミンテルン極東局
- 8月1日 - 八一吉敦暴動
- 12月 - 中国、第1次囲剿
1931年(民国20年、昭和6年)
[編集]- 4月 - 中国、第2次囲剿。
- 6月 - 中国、第3次囲剿
- 6月15日 - 中国、ヌーラン事件
- 6月27日 - 中村大尉事件。満州事変の一因。
- 7月2日 - 万宝山事件。満州事変の一因。翌日、朝鮮排華事件も発生。間島問題も参照。
- 9月18日 - 満州事変(柳条湖事件)。同日、コミンテルン指令1931年。
- 11月7日 - 中国、瑞金で第一回全中国ソビエト代表者大会。中華ソビエト共和国臨時政府樹立。中国共産党革命根拠地も参照。
1932年(民国21年、昭和7年)
[編集]- 1月28日から3月3日 - 第一次上海事変
- 2月末 - 尾崎秀実帰国、日本国内でゾルゲ諜報団活動開始(ヒューミント)。
- 7月 - 中国、第4次囲剿
- 7月24日 - 日本、社会大衆党結成。
- 11月13日 - 南京の鶯(情報戦、心理戦、プロパガンダも参照)
1933年(民国22年、昭和8年)
[編集]- 2月24日 - 国際連盟総会、「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」勧告案の採決。
- 5月31日 - 日中間で塘沽停戦協定締結。この協定で、満州事変に一応の決着。
- 10月 - 中国、第5次囲剿(1934年10月まで)
- 11月 - 中国、福建事変
1934年(民国23年、昭和9年)
[編集]1935年(民国24年、昭和10年)
[編集]- 1月8日 - 哈爾哈廟事件(日ソ間紛争)
- 1月15日から1月17日 - 中共、遵義会議
- 7月25日から8月20日 - 第7回コミンテルン大会(人民戦線戦術および統一戦線も参照)
- 8月1日 - 中共、八・一宣言
- 11月1日 - 汪兆銘狙撃事件(藍衣社も参照)
- 11月9日 - 中山水兵射殺事件
- 11月25日 - 河北省に冀東防共自治政府成立。
1936年(民国25年、昭和11年)
[編集]- ソ連、1936年から1938年にわたり大粛清。グラーグも参照。
- 1月29日 - 金廠溝事件(日ソ間紛争)
- 3月12日 - ソ蒙相互援助議定書締結
- 5月 - 南満州に朝鮮祖国光復会(抗日民族統一戦線)結成。
- 6月3日-11月15日 - 満洲里会議
- 6月19日 - 乾岔子島事件(日ソ間紛争)
- 8月24日 - 成都事件
- 9月3日 - 北海事件
- 9月19日 - 漢口邦人巡査射殺事件
- 9月23日 - 上海日本人水兵狙撃事件
- 11月25日 - 第7回コミンテルン世界大会を受け、日独防共協定(反コミンテルン協定)締結
- 12月12日 - 中国、西安事件
1937年(民国26年、昭和12年)
[編集]- コミンテルン指令1937年。
- 2月15日から同月21日まで - 中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議
- 2月21日 - 日本無産党結成。
- 7月7日 - 盧溝橋事件、この事件が日中戦争の開始とされる。シナ事変勃発
- 7月13日 - 大紅門事件。
- 7月25日 - 郎坊事件。
- 7月26日 - 広安門事件。
- 7月29日 - 通州事件発生。朝鮮人を含む日本人居留民多数が暴徒に惨殺され、対中感情が極度に悪化。
- 8月9日 - 大山事件。
- 8月13日 - 第二次上海事変、日中戦争が本格化。大日本帝国陸軍、中国への派兵を決定。日本、招集の増加(病院船、病客車、傷痍軍人も参照)。召集令状を受けた出征者に千人針を贈る風習は1945年8月の敗戦まで続いた。また、国防献金も終戦まで盛んに行われた。
- 8月21日 - 中ソ不可侵条約締結。その後、在華ソビエト軍事顧問団が派遣され、国民革命軍の対日作戦に影響を与えた。
- 9月23日 - 中国国民党と中国共産党による第二次国共合作が成立
- 9月 - 日本、国民精神総動員。このころから日本における検閲の強化や報道が加熱(大陸の花嫁・暴支膺懲)、同調圧力も強まる(非国民およびレッテル貼りも参照)。また、露営の歌など、軍歌もさかんに流れるようになった。
- 12月15日 - 日本、人民戦線事件発生(〜1938年2月1日)、第7回コミンテルン世界大会の影響。1937年以降、革新官僚の主導で戦時統制経済開始、戦時体制に移行。
1938年(民国27年、昭和13年)
[編集]- 1月3日 - 岡田嘉子、杉本良吉とソ連領に越境。これを受け、翌年に国境取締法施行。
- 1月16日 - 近衛文麿、「国民政府を対手とせず」の声明を出し、トラウトマン工作の打ち切り。背景にソ連のスパイ・尾崎秀実らの積極工作(アクティブ・メジャーズ)。
- 2月23日 - ソ連空軍志願隊などによる日本領土(松山飛行場)への攻撃。
- 7月29日 - 張鼓峰事件(日ソ間紛争)。
1939年(民国28年、昭和14年)
[編集]- 5月11日 - ノモンハン事件(日ソ間紛争)。
- 5月26日-5月27日 - 東安鎮事件(日ソ間紛争)
- 9月 - 米国共産党調書発行(ヴェノナ文書も参照)。
- 11月18日 - 日本、太平洋問題調査会から事実上の脱退。
- 11月 - 日本、企画院事件発生(〜1941年4月)。
1940年(民国29年、昭和15年)
[編集]- 3月30日 - 中華民国維新政府と中華民国臨時政府を統合、汪兆銘、国民政府の南京遷都(「還都」)を宣言し、林森を主席とし、自らを代理主席とする新中央政府(南京国民政府、汪兆銘政権)を成立させる。汪兆銘工作および尾崎秀実の謀略工作も参照(アクティブ・メジャーズ)。
1941年(民国30年、昭和16年)
[編集]- 1月4日 - 中国、皖南事変
- 4月25日 - 日ソ中立条約調印。ソ連による対中支援の停止。
- 7月28日 - 日本軍、南部仏印進駐(南進論も参照)。背景にソ連のスパイ・尾崎秀実の誘導工作(アクティブ・メジャーズ)。
- 8月14日 - 大西洋憲章。
- 9月27日 - ゾルゲ事件(〜1942年4月)。
- 10月18日 - 東条英機内閣、成立。統制派および革新派も参照。
- 12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)始まる(日本の対米英宣戦布告)。汪兆銘が「大東亜戦争に関する声明」を発表。
1942年(民国31年、昭和17年)
[編集]- 1月1日 - 連合国共同宣言。
1943年(民国32年、昭和18年)
[編集]- 2月1日 - ヴェノナ・プロジェクト開始。(シギントも参照)
- 3月7日 - 毛沢東ひきいる中国共産党が、馮竜を使者として汪兆銘に接触し、和平統一を申し出る
- 4月5日 - 大本営が支那派遣軍に対ソ作戦に関する指示。北方転用予定で在支6個師団を指定
1944年(民国33年、昭和19年)
[編集]- 10月11日 - ソ連、トゥヴァ人民共和国を併合しトゥヴァ自治州とする。
1945年(民国34年、昭和20年)
[編集]- 2月4日 - 米英ソの首脳がヤルタ会談を開催、英米ソの政府の首脳間で密約。ただし、不参加の日本に対し密約の効力は及ばない。冷戦も参照。
- 4月5日 - ソ連、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達。小磯国昭内閣が総辞職。
- 7月26日 - ポツダム宣言。
- 8月8日 - 夕刻ソ連、国際法(日ソ中立条約、国連憲章2条4項)に違反し対日宣戦布告、満州国に侵攻(ソ連対日参戦)。
- 8月12日 - 麻山事件、牡丹江の戦い(〜16日)
- 8月13日 - 小山克事件
- 8月14日 - 終戦の詔が出される。連合国に対し、中立国を経由しポツダム宣言受諾(降伏)を通告。中ソ友好同盟条約締結。葛根廟事件。
- 8月15日(終戦の日) - 日本で「戦争終結の詔書」がラジオ放送される(玉音放送)。局地戦を除き、停戦(日本の降伏)。大陸の状況については、ソ連軍占領下地域も参照。戦後、東西冷戦へ。
- 8月17日 - ベトナム八月革命。
- 8月25日 - 牡丹江事件、仁義佛立講開拓団遭難。京城日本人世話会。
- 8月26日 - 満州国での戦闘が終わる。
- 8月27日 - 敦化事件、佐渡開拓団跡事件。
- 9月1日 - 釜山日本人世話会
- 9月2日 - ベトナム民主共和国
- 9月5日 - ソ連、国際法(ポツダム宣言)に違反し、ハバロフスクへ連行した首脳部も含め、関東軍将兵57万人を強制連行(シベリア抑留)。過酷な環境で奴隷的使役を強要。ラーゲリも参照。
- 9月6日 - 朝鮮人民共和国
- 9月7日 - 連合国占領期の朝鮮
- 9月17日 - 瑞穂村開拓団集団自決
- 10月1日 - 京城日本人世話会罹災民救済病院
- 10月15日 - 日本、治安維持法廃止、政治犯の釈放、在日本朝鮮人連盟
- 11月2日 - 日本社会党結党。前身は社会大衆党および日本無産党、後身は新社会党や社会民主党および立憲民主党左派(近藤G、吉田G、菅Gなど)
1946年(民国35年、昭和21年)
[編集]- 2月3日 - 通化事件(残留日本兵#中国および中国残留日本人も参照)。
- 2月 - 日本、国鉄労働組合総連合会結成。
- 5月 - 満洲からの引き揚げ開始(葫芦島在留日本人大送還および引揚者も参照)。
- 5月19日 - 日本、飯米獲得人民大会
- 10月10日 - 中国人民解放軍総司令部が「打倒蔣介石、解放全中国」のスローガンを発表
1947年(民国36年、昭和22年)
[編集]1948年(民国37年、昭和23年)
[編集]- 4月3日 - 済州島四・三事件
- 4月15日 - 日本、東宝争議
- 7月1日 - 日本、国家公務員法施行。欠格条項(38条)あり。
- 9月9日 - 北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国成立。
- 10月19日 - 麗水・順天事件
1949年(民国38年、昭和24年)
[編集]- 1月25日 - 中国共産党が北京を攻略。
- 1月31日 - 中国共産党の人民解放軍が北京入城。
- 4月23日 - 中国共産党の人民解放軍、中華民国の首都南京を制圧。
- 5月20日 - 中国国民党、台湾に戒厳令施行。
- 6月30日 - 北朝鮮、朝鮮労働党結成。日本社会党と友好関係にあった。
- 7月5日から翌7月6日 - 日本、下山事件
- 7月15日 - 日本、三鷹事件
- 8月17日 - 日本、松川事件
- 8月29日 - ソ連が初の核実験(RDS-1)を実施。ベノナ及びローゼンバーグ事件、ジョルジュ・コワリも参照。
- 10月1日 - 中華人民共和国成立
- 12月25日から12月30日 - ソ連、一方的にハバロフスク裁判開催。
1950年(民国39年、昭和25年)
[編集]- 祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)成立。
- 5月30日 - 人民広場事件
- 6月6日 - 人民広場事件を受け、レッドパージ開始
- 7月 - ソ連、969人の日本人捕虜を中国側に引き渡した。結果、計982人が撫順戦犯管理所に抑留された。
1951年(民国40年、昭和26年)
[編集]- 1月 - 在日朝鮮統一民主戦線
- 2月13日 - 日本、地方公務員法施行。欠格条項(16条)あり。
- 9月8日 - サンフランシスコ平和条約(ソ連・現ロシアは調印拒否)および旧日米安保条約調印。
- 10月 - 日本共産党の51年綱領。中核自衛隊、山村工作隊の活動により後の選挙で全議席を失い、後に武装闘争の否定を主張(敵の出方論、日本の新左翼も参照)。一連の動きは、後の破壊活動防止法制定や公安調査庁設置に繋がった。
- 12月26日 - 練馬事件
1952年(民国41年、昭和27年)
[編集]- 1月21日 (夜) - 白鳥事件発生
- 4月28日 - 日華平和条約調印。同日、サンフランシスコ平和条約発効、日本は独立を回復。ただし、ソ連・現ロシアは調印拒否していることから、日露二国間の外交関係に効力は及ばない。
脚注
[編集]- ^ 黒田紘一、『日中戦争の真実』、幻冬舎ルネッサンス新書、2015年
- ^ a b c d e f g h 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』自由社、1987年
- ^ 統制派の前身となった桜会のスポンサーはスターリンであったとする見解もある。“桜会の資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。”ブログ「誠」より
- ^ a b c d e 渡部梯治『ユダヤは日本に何をしたか』 成甲書房2003年
- ^ 「この頃(1939年)、日本の警察は、合衆国を通じて日本がコミンテルンと連携を保っていることを知っていた。この太平洋路線は、1935年以来、機関員、伝書使、資金の主要経路になっていた。宮城はこの道を通り、コミンテルンの援助のもとに、ゾルゲ・グループに参加する旅をしたのであった」F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、120ページ
- ^ 三田村武夫『戦争と共産主義 : 昭和政治秘録』民主制度普及会 1950年, p.37
- ^ 日支闘争同盟ビラ - 展示室ギャラリー 愛知大学記念館
- ^ a b c 尾崎秀実手記抜粋、昭和17年、三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」収載
- ^ 伊藤隆、野村実編「海軍大将小林躋造覚書」山川出版社、173 page、近代日本史料選書3、1981年
- ^ 「したがって、ソルゲ事件は半分しか解明されていないことになります。共産党との関わりでしか調べていないからです。当時の日本陸軍そのものが、どれだけソ連に浸透されていたかという問題については、アンタッチャブルなのです。何も調べていない。だから、我々が見ているソルゲ事件は、実態の半分です。本当は陸軍参謀本部の人間がソルゲにどれだけ協力したか。日本の軍のなかに、どれだけソ連のスパイがいたかということが分かってはじめて真相に到達するのです。」菅原光弘、『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』、KKベストセラーズ、2013
- ^ 1939年9月1日にゾルゲはモスクワから次のような通信を受け取った。「私は貴下の最も緊急かつ重要な問題は数名の日本の陸軍将校の援助を得ることであると指摘した」、F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、73ページ
- ^ a b c 山口富永、近衛上奏文と皇道派、国民新聞社、2010年