早川和夫
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県下都賀郡壬生町 |
生年月日 | 1960年5月17日(64歳) |
身長 体重 |
179 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト3位 |
初出場 | 1985年6月22日 |
最終出場 | 1993年6月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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早川 和夫(はやかわ かずお、1960年5月17日 - )は、栃木県下都賀郡壬生町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
来歴・人物
[編集]栃木商業では3年次の1978年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進むが、真岡高に敗退。
高校卒業後は1979年に国士舘大学へ進学し、東都大学リーグでは1年次の同年秋季で初優勝を経験するが、自身の活躍の場は無かった。その後は二部との降昇格を繰り返すが、4年次の1982年春季には二部でMVPと首位打者を獲得。一部(4季)通算29試合に出場、90打数17安打、打率.189、0本塁打、5打点。
大学卒業後は1983年に三菱重工横浜へ入社し、1984年の都市対抗に日本鋼管の補強選手として出場。前川善裕らと共に打線の主軸となり、神戸製鋼との1回戦で本塁打を放つなど活躍。山岡政志(日本石油から補強)と古川利行の好投もあって決勝に進むが、日産自動車との乱打戦の末に9-10で敗退。準優勝にとどまる[1]が、この試合でも4安打を記録し、打率.647で大会首位打者を獲得。
1984年のドラフト3位で日本ハムファイターズに入団。即戦力の外野手と期待され、1年目の1985年は6月22日の阪急戦(後楽園)6回裏に白井一幸の代打で初出場を果たし、今井雄太郎から初打席初安打を記録。7月4日の南海戦(大阪)では7番・左翼手として初先発し、同14日の阪急戦(西宮)2回表に山沖之彦から初打点を記録。3年目の1987年には5月31日の南海戦(大阪)では開幕以来初の先発で5打数5安打し、これをきっかけに右翼手の定位置を得ると、6月5日の西武戦(後楽園)1回裏には東尾修から初本塁打を放つ。同年は57試合に先発出場して打率.278の好成績を記録し、1988年も開幕からレギュラーとして起用されるが、打撃面で振るわず五十嵐信一にポジションを奪われた。1990年に投手の田中幸雄と共に藤王康晴、小松崎善久との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。1年目には3試合に2番打者として起用されるが、その後は代打が主となり、1993年限りで現役を引退。
引退後は中京テレビ野球解説者(1994年 - )の傍らトレーニングを学び、中日でトレーニング担当(1996年)→二軍フィジカルコーチ(1997年 - 1999年)→一軍フィジカルコーチ(2000年)、二軍トレーニングコーチ(2003年)→外野守備・トレーニングコーチ(2004年 - 2005年)→守備兼トレーニングコーチ(2006年)→外野守備・走塁コーチ(2007年)、二軍育成コーチ(2008年, 2012年 - 2013年)、野手コーチ(2009年 - 2011年, 2014年 - 2015年, 2017年 - 2018年)、二軍守備コーチ(2016年)を務めた。
中日コーチ時代の2010年には6月4日から一軍野手コーチに昇格し、一塁ベースコーチも二軍内野守備・走塁コーチに転じた風岡尚幸一軍内野守備走塁コーチに代わって返り咲いた。2011年途中からは三塁ベースコーチに配置転換された辻発彦一軍総合コーチに代わって、ベンチ専従となり落合博満監督の横でサイン伝達を担った。
2013年10月4日に球団から2014年シーズンの契約を結ばない事が発表された[2]ものの、同22日に2014年は一軍野手コーチに転じる[3]ことが発表された。
2016年は谷繁元信監督の休養後に一軍守備コーチに転じ、攻撃時は一塁ベースコーチも担当。
中日でコーチを務めた後、2019年から京都廣学館高等学校硬式野球部に週2回で指導を行っている[4]。
また、名古屋市に整体院、みろく(369)整体を開業。整体師として活動している[5]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1985 | 日本ハム | 24 | 33 | 30 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 8 | 0 | .167 | .219 | .167 | .385 |
1986 | 15 | 13 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1987 | 64 | 191 | 169 | 13 | 47 | 8 | 3 | 2 | 67 | 16 | 1 | 3 | 5 | 1 | 15 | 2 | 1 | 27 | 1 | .278 | .339 | .396 | .735 | |
1988 | 44 | 134 | 110 | 16 | 25 | 2 | 1 | 2 | 35 | 13 | 2 | 2 | 7 | 0 | 12 | 0 | 5 | 28 | 0 | .227 | .331 | .318 | .649 | |
1989 | 10 | 8 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | .167 | .375 | .167 | .542 | |
1990 | 中日 | 4 | 13 | 13 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .385 | .385 | .462 | .846 |
1991 | 33 | 31 | 22 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 8 | 0 | .227 | .452 | .273 | .724 | |
1993 | 13 | 12 | 12 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
NPB:8年 | 207 | 435 | 373 | 38 | 91 | 12 | 4 | 4 | 123 | 33 | 4 | 5 | 15 | 1 | 40 | 3 | 6 | 80 | 4 | .244 | .326 | .330 | .656 |
記録
[編集]- 初出場:1985年6月22日、対阪急ブレーブス12回戦(後楽園球場)、6回裏に白井一幸の代打として出場
- 初打席・初安打:同上、6回裏に今井雄太郎から
- 初先発出場:1985年7月4日、対南海ホークス11回戦(大阪球場)、7番・左翼手として先発出場
- 初打点:1985年7月14日、対阪急ブレーブス16回戦(阪急西宮球場)、2回表に山沖之彦から
- 初本塁打:1987年6月5日、対西武ライオンズ10回戦(後楽園球場)、1回裏に東尾修から
背番号
[編集]- 10 (1985年 - 1989年)
- 59 (1990年 - 1993年)
- 91 (1997年 - 2000年、2003年)
- 84 (2004年 - 2018年)
脚注
[編集]- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 来季の契約について中日球団公式サイト2013年10月4日配信
- ^ 【中日】佐伯、達川氏ら来季コーチ陣発表日刊スポーツ 2013年10月22日配信
- ^ 硬式野球部、新たなスタート!京都廣学館高等学校 (2019年7月17日). 2023年5月30日閲覧。
- ^ みろく(369)整体|中日ドラゴンズ在籍29年の早川和夫が施術する名古屋の整体院みろく(369)整体 2023年5月30日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 早川和夫 - NPB.jp 日本野球機構