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梨本宮守脩親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昌仁法親王から転送)
梨本宮守脩親王
梨本宮
梨本宮守脩親王
続柄

身位 親王
敬称 殿下
出生 1819年12月16日
日本の旗 日本 京都
死去 (1881-09-01) 1881年9月1日(61歳没)
埋葬 京都府京都市東山区今熊野南谷町泉涌寺
父親 伏見宮貞敬親王
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梨本宮守脩親王(なしもとのみや もりおさしんのう、文政2年10月29日1819年12月16日) - 1881年明治14年)9月1日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本皇族梨本宮初代当主。伏見宮貞敬親王の第10王子。伏見宮邦家親王の弟。幼称は、万代宮(まよのみや)。

略歴

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天保4年(1833年)4月8日親王宣下。守脩と命名される。同年9月26日円満院に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。安政3年(1856年)12月15日二品に叙せられる。安政6年(1859年)6月20日円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改め(同年7月4日)、同年9月27日天台座主も務める(辞任文久2年5月7日、再任同年閏8月23日)。明治維新後は他の皇族と同様に還俗し(慶応4年閏4月15日)、梶井宮守脩親王(三品)を名乗った。明治元年9月18日上野太守に任ぜられる。明治3年(1870年)11月30日宮号を梨本宮に改称する(明治8年12月31日叙勲一等、明治13年5月18日叙二品)。明治14年(1881年)9月1日に亡くなった。63歳。[1]

親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王の王子菊麿王を養子とした。

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守脩親王墓

墓は京都府京都市東山区今熊野南谷町の泉涌寺内にある。守脩親王墓には朝彦親王墓と淑子内親王墓が隣接している[2]

脚注

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  1. ^ 国書刊行会編『系図綜攬 第一』(大正4年)・104頁、国書刊行会編『系図綜攬』(大正14年)・64頁
  2. ^ 守脩親王墓(もりおさしんのうのはか)・淑子内親王墓(すみこないしんのうのはか)・朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)”. 京都通百科事典. 2023年3月11日閲覧。

関連項目

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