梨本宮守脩親王
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(昌仁法親王から転送)
梨本宮守脩親王 | |
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梨本宮 | |
梨本宮守脩親王 | |
続柄 | |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1819年12月16日 日本 京都 |
死去 |
1881年9月1日(61歳没) |
埋葬 | 京都府京都市東山区今熊野南谷町泉涌寺内 |
父親 | 伏見宮貞敬親王 |
梨本宮守脩親王(なしもとのみや もりおさしんのう、文政2年10月29日(1819年12月16日) - 1881年(明治14年)9月1日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の皇族。梨本宮初代当主。伏見宮貞敬親王の第10王子。伏見宮邦家親王の弟。幼称は、万代宮(まよのみや)。
略歴
[編集]天保4年(1833年)4月8日親王宣下。守脩と命名される。同年9月26日円満院に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。安政3年(1856年)12月15日二品に叙せられる。安政6年(1859年)6月20日円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改め(同年7月4日)、同年9月27日天台座主も務める(辞任文久2年5月7日、再任同年閏8月23日)。明治維新後は他の皇族と同様に還俗し(慶応4年閏4月15日)、梶井宮守脩親王(三品)を名乗った。明治元年9月18日上野太守に任ぜられる。明治3年(1870年)11月30日宮号を梨本宮に改称する(明治8年12月31日叙勲一等、明治13年5月18日叙二品)。明治14年(1881年)9月1日に亡くなった。63歳。[1]
親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王の王子菊麿王を養子とした。
墓
[編集]墓は京都府京都市東山区今熊野南谷町の泉涌寺内にある。守脩親王墓には朝彦親王墓と淑子内親王墓が隣接している[2]。
脚注
[編集]- ^ 国書刊行会編『系図綜攬 第一』(大正4年)・104頁、国書刊行会編『系図綜攬』(大正14年)・64頁
- ^ “守脩親王墓(もりおさしんのうのはか)・淑子内親王墓(すみこないしんのうのはか)・朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)”. 京都通百科事典. 2023年3月11日閲覧。