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教仁法親王

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教仁法親王

教仁法親王(きょうじんほうしんのう、1819年6月19日文政2年4月27日〉 - 1851年7月7日嘉永4年6月9日〉)は、江戸時代後期の法親王閑院宮孝仁親王の第3王子、母は鷹司吉子。閑院宮の継嗣は愛仁親王であり、継嗣ではないので当時の慣例に従い出家した。また、光格天皇の猶子となったこともあった。

幼名は健宮。諱は弘保。文政13年(1830年)、親王宣下を受け、親王となる。天保12年(1841年)に天台座主に任命された[1]。嘉永4年(1851年)6月9日、33歳で薨去。

日記

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妙法院に天保9年(1838年)〜嘉永4年(1851年)までの間の日記を遺しており、うち天保9年と嘉永4年を除くとほぼ1年を通じて記載がある。『妙法院史料』第7巻に所収。

脚注

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参考文献

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