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春仁王妃直子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一条 直子
一条家閑院宮家
1925年頃
続柄 一条実輝第4女子

全名 一条 直子(いちじょう なおこ)
身位 王妃 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1908年11月7日
日本の旗 日本東京府東京市赤坂区福吉町
(現:東京都港区)一条公爵邸
死去 (1991-06-17) 1991年6月17日(82歳没)
配偶者 閑院宮春仁王(1966年離婚)
  高橋尚民のち一条尚民
子女 無し
父親 一条実輝
母親 細川悦子
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一条 直子(いちじょう なおこ、旧字体一條 直子1908年明治41年〉11月7日 - 1991年平成3年〉6月17日)は、日本旧皇族閑院宮春仁王の元妃。一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。皇籍離脱前の身位王妃で、皇室典範における敬称殿下皇族時代の名は、春仁王妃 直子(はるひとおうひ なおこ)であった。

経歴

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春仁王妃直子
春仁王と春仁王妃直子

1925年大正14年)に閑院宮春仁王と成婚。1947年昭和22年)10月14日皇室典範第11条1項により、夫・春仁王とともに皇籍離脱。皇籍離脱後は、「閑院 直子(かんいん なおこ)」と名乗る。1957年(昭和32年)3月、小田原市城山の自邸内に学校法人小田原女子短期大学を開いて名誉学長に就任。1956年(昭和31年)に婚家を出て離婚を求めたが夫が応じず[1]1966年(昭和41年)1月に離婚し、「一条 直子」に名を戻す。このとき直子は、春仁王が同性愛者で彼女を顧みず、軍隊時代の当番兵だった男性との情事に溺れていたと証言し、スキャンダルとなった。離婚後は、短大設立時に知り合った10歳下の高橋尚民(のち一条尚民。相模女子大学元教授、小田原女子短期大学教務課長、のち東京音楽大学国文学教授[2][3])と再婚した。その後、千葉に住み、友人の会社の社長をしたり、趣味の日本画や短歌に没頭したり優雅な生活を楽しみ、1975年頃に「いろいろいわれましたが、私は十分考えた上での決心でした。閑院を離れてもう17年になりますが、その間ただの一度も戻りたいと思ったことはなく、いまの生活は何物にも代え難い倖せです」と発言している[4]1991年平成3年)6月17日、逝去。82歳没。

栄典

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血縁

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出典

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  1. ^ 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』河原敏明、講談社、2007、 P.114「元閑院宮夫妻の複雑な離婚―閑院直子」
  2. ^ 河原敏明『天皇家の50年』p.266
  3. ^ 『国文学者名簿総覧』教育出版センター出版部、1976、p503
  4. ^ 河原敏明『天皇家の50年』p.267
  5. ^ 『官報』第4168号、「叙任及辞令」1926年07月15日。p.393
  6. ^ 『官報』第2860号、「叙任及辞令」1936年07月15日。p.427
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。