月刊マンガ・マン
月刊マンガ・マン | |
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The Manga Man | |
『月刊マンガ・マン』(第2巻第3号、東京漫画新聞社、1930年3月)の表紙。右下に「жюсав」(ジュサヴ)とキリル文字で署名がある。 | |
愛称・略称 | マンガマン |
ジャンル | 漫画雑誌 |
刊行頻度 | 月刊誌 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 20銭 |
出版社 | 東京漫画新聞社 |
発行人 | 久保陽 |
刊行期間 | 1929年8月1日(昭和4年8月号) - 1931年6月6日(昭和6年6月号) |
特記事項 | 新漫画派集団 |
『月刊マンガ・マン』(げっかんマンガ・マン、英語: The Manga Man)は、かつて昭和の初期に存在していた日本の漫画雑誌である。編集発行は久保陽、発行元東京漫画新聞社、月刊誌。単に『マンガマン』とも表記される[1][2]。岡本一平、麻生豊、宮尾しげを、長崎抜天、堤寒三らが寄稿したことで知られる[3]。
略歴・概要
[編集]2年弱の活動期
[編集]1929年(昭和4年)8月1日、創刊する[2]。同誌の主宰は久保陽、のちに漫画家となる吉田貫三郎が、編集助手を務めていた[2]。
当時の知名度は高くなかったものの、『アサヒグラフ』(朝日新聞社)、『新青年』(博文館ほか)とともにアメリカ合衆国のナンセンス漫画を掲載していた。日本人の漫画家の作品にも、その影響が見られる。漫画家志望の青年たちが、作品を投稿していた雑誌である。内容に関しては、一枚物・連載のナンセンス漫画の他に、ナンセンス小説が掲載されていた。
1931年(昭和6年)6月6日、同日付発行の通巻第23号をもって廃刊する[2]。
その後
[編集]1932年(昭和7年)5月、本誌で活躍した漫画家20名が、「新漫画派集団」を結成した[4]。メンバーは、中心人物である横山隆一、近藤日出造、矢崎茂四のほか、杉浦幸雄、吉田貫三郎、井原一郎、石川義夫(利根義雄)、黒沢はじめ、益子しでを(益子善六)、岸丈夫、勝木貞夫、佐宗美邦、大羽比羅夫、北村一王、小関まさき、加藤たけ子(矢崎武子)、片岡敏夫、吉本三平、竹田弥太郎、増田正二である[4]。
1987年(昭和62年)5月、清水勲の監修により、主要ページを抜粋して復刻、『漫画雑誌博物館 10 昭和時代篇 マンガマン』として国書刊行会が出版した[1]。本誌の通巻全23号のうち、計16号分を対象として復刻、「『マンガマン』史年表」(1929年8月 - 1931年5月、p.215-216.)を含む全218ページのボリュームである[1]。
おもな漫画家・小説家
[編集]- 岡本一平
- 近藤日出造
- 宮尾しげを
- 小山田宏
- 村山知義
- 内藤贊
- 小泉萬里
- 麻生豊
- 長崎抜天
- 堤寒三
- 吉田貫三郎
- 矢崎茂四
- 宍戸左行
- ヤコブソン
- 前川千帆
- 田中比左良
- 池部鈞
- 富岡襄
- 浅田勇
- 木村豊
- 石野石
- 黒沢はじめ
- 西塔洗子
- 佐宗美邦
- 石河義夫(利根義雄)
- 和田邦坊
- 渡辺汲
- 久島恒雄
- 池田永一治
- 中村とく吉
- 桑原雷生
- 榎本映一
- 小林外史夫
- オットー・ソグロウ
- 志村和夫
- 益子しでを(益子善六)
- 森比呂志
- 片岡敏夫
- 細木原青起
- 三林昌三
- 岩松淳
- 荒井南雄
- 岸丈夫
- 根岸民彌
- 小関まさき
- 衣笠サム
- 森一吉
- 服部亮英
- 新田清次郎
- 岡能服太郎
- 中野けん文
- 一刀研二
- 高崎正博
- 大和義雄
- 内田秋夫
- 藤山テンポ
- 須山計一
- 大野泰三(大野鯛三)
- 石川進介
- 大田耕爾
- 安本亮一
- 小野佐世男
- 稲垣足穂
- 下川凹天
- 河盛久夫
- 小山内龍
- 横井福二郎(横井福次郎)
- 北義六
- 藻岩麓生
- 岩谷喜代二
- 大槻定雄
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『マンガイラスト 昭和の歴史 1 昭和の幕明け』、原田勝正、講談社、1984年7月 ISBN 4061874519
- 『漫画雑誌博物館 10 昭和時代篇 マンガマン』、監修清水勲、国書刊行会、1987年5月 ISBN 4336024251
- 『さしえの50年』、尾崎秀樹、平凡社、1987年5月 ISBN 4582651216
- 『戦後漫画のトップランナー 横井福次郎 - 手塚治虫もひれ伏した天才漫画家の軌跡』、清水勲・鈴木理夫、ビジュアル文化シリーズ、臨川書店、2008年1月 ISBN 465304015X