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有漏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教用語
パーリ語 Āsava
サンスクリット語 Āsava
中国語
日本語
英語 influx, canker
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有漏(うろ、: sāsrava[1]とは、仏教において、煩悩に関わるのこと[2]

(ろ、: āsrava)は、さまざまな心の汚れを総称して表す言葉で、広い意味で煩悩と同義と考えられる。仏教では「流れ出る」「漏出」の意味に解し(他に「漏世」「漏注」「漏失」などの漢訳語もある)、汚れ・煩悩は六根(視覚・聴覚など五官と心)から流れ出て、心を散乱させるものと説明した[3][4]。そのような汚れのある状態を有漏といい、煩悩に関わらない汚れが滅し尽された状態を無漏(むろ、: anāsrava[2][5][3]という。

漏の数

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三漏

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相応部漏経では、釈迦は以下の三漏を挙げている。

  • 漏 (Kāma āsavo)
  • 漏 (bhava āsavo)
  • 無明漏 (avijjā āsavo)

四漏

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阿毘達磨大毘婆沙論では、以下の四漏を挙げている。これは四暴流とそのまま対応する。

  • 欲漏
  • 有漏
  • 無明漏

七漏

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有漏の状態

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有漏は、厳密には「煩悩の対象となりあるいは煩悩とあい伴うと同時に、煩悩がそれらの上に力をもち、それらをけがすようなもの」という意味となる。たとえば、人はほとけそれ自体を対象として煩悩を起こすこともあるが、ほとけは業・輪廻の世界を超えており、有漏ではない。また、業・輪廻の世界に属するかぎりすべての存在は、善いものも中性のものも悪いものも有漏である[4]

倶舎論においては、苦・集・滅・道の四諦のうち、苦諦および集諦が有漏に、滅諦(無為の3種類のうち択滅(ちゃくめつ)に同じ。なお、ここでは他の2種類にあたる虚空・非択滅も含む)および道諦が無漏に対応する[6]。図示すれば下記の通り。

一切[6]
有為法 無為法
有漏法 無漏
・苦諦

・集諦

・道諦 ・滅諦=択滅

非択滅虚空

業と煩悩の世界、平常的人間の世界は有為であって有漏である。さとりの領域に属する涅槃は無為であって無漏である。そして、平常的人間の世界からさとりの領域にすすむ「道(諦)」は、さとりに入っていないから有為であり、同時に煩悩を離れる道だから無漏である[7]と考える。また、倶舎論では「道を除いて余の有為は、彼に於いて漏が随増す」とあり、有漏法は煩悩の対象となるばかりでなく、煩悩がその上にとどまって離れず、なお増大するものであると捉えられている[2]

一休の句

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禅僧の一休宗純は、師の華叟宗曇からの「洞山三頓」の公案に対し一休が見解を示し、さらに「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」との句を添えたことをきっかけに、華叟宗曇から「一休」の号を授けられた[8]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 櫻部・上山 2006, p. 仏教基本用語(2).
  2. ^ a b c 櫻部 2006, p. 60.
  3. ^ a b 岩波仏教辞典第2版 1998, p. 63.
  4. ^ a b 櫻部・上山 2006, p. 49.
  5. ^ 櫻部・上山 2006, p. 仏教基本用語(9).
  6. ^ a b 櫻部 2006, p. 61.
  7. ^ 櫻部・上山 2006, p. 64.
  8. ^ 安藤 1985, p. 60.

参考文献

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  • 櫻部建上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1 (初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
  • 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5 
  • 中村元他『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8 
  • 安藤英男『一休 逸話でつづる生涯』鈴木出版、1985年。ISBN 4-7902-1005-7