有馬頼萬
有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日(元治元年6月15日) - 1927年(昭和2年)3月21日)は、日本の華族(伯爵)。
旧筑後国久留米藩主・有馬家の第14代当主。昭和期の政治家で日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は子。
生涯
[編集]元治元年(1864年)6月15日、久留米藩最後の藩主・有馬頼咸の子として生まれる。母は側室・金田ミヨ。幼名は和之助といった。
明治10年(1877年)3月26日、病弱な兄の13代当主頼匡に代わり家督を継承し、4月に従五位に叙せられる。
明治17年(1884年)2月、宮内省式部職御用掛として出仕する。同年7月、華族令の公布にともない、伯爵の爵位が与えられた。明治19年(1886年)9月に宮内省を辞し、義兄にあたる小松宮彰仁親王とともに欧米諸国を歴訪した。
明治24年(1891年)9月、大久保利通が主導する士族授産の一つ国営安積(あさか)開拓[1]へは、明治4年(1871年)の久留米藩難事件[2]で処分された者たちが中心となって入植し、久留米開墾社を組織して一致団結して開墾に当たっていた。有馬家も支援を求める開墾社へたびたび援助していたが、先年開墾地無代払い下げを受けたのを期に開催された開墾成功式に出席し、労をねぎらっている[3]。
明治39年(1906年)、有馬家育英部を設置し、初代総裁となった。ブリヂストン創設者の石橋正二郎や政治家の石井光次郎はこの育英部の支援を受けて学び、戦後壊滅状態となった育英部を有馬頼義ともに有馬育英会として再興している。[4][5]
大正7年(1918年)7月、従二位に昇った。
昭和2年(1927年)3月21日没、享年64。墓所は東京都渋谷区の祥雲寺にある。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父母
- 兄弟姉妹
- 長女:頼子(小松宮彰仁親王妃)
- 次女:千代(久我通久室)
- 四男:有馬頼匡(第13代当主)
- 五男:有馬頼萬
- 六女:民(加藤明実継室)
- 七女:納子(伊達宗陳室)
- 七男:有馬頼之(旧下野国吹上藩主家継
- 八男:有馬頼多(分家、男爵、1876-1913)早稲田大学政治経済科出身。妻に伯爵佐野常民の孫・米子(1882年生、1901年離婚)、男爵今園国映の娘・智子(離婚)、侯爵菊亭公長の姉で高松公重(高松家9代当主高松實村の子)の元妻の英子(1881年生)。娘の香子(1902年5月生)は柴田米太郎の養子に、誉子(1902年11月生、学習院女学部出身)は新井高善(三井高弘の子)の妻に、千賀子(1906年生、智子の子)は今園国映の妻せいの養子になり、松岡一衛の妻となった。家督と爵位は息子の有馬正賴(1903年生、英子の子、国学院大学国史科出身)が継いだ。正賴と妻明子(水野忠敬の孫。のち離婚)の次男に有馬頼底。[9][10]
- 妻
- 子女
脚注
[編集]- ^ 福島県郡山市ウェブサイト - 市民の方へ - 安積開拓(あさかかいたく)-『安積 開拓小冊子』
- ^ 久留米藩は真木保臣に連なる過激な尊皇攘夷思想家が七生隊や応変隊と称する私兵集団を組織し、その武力を背景に藩政を牛耳っていた。明治3年(1870年)に山口藩(長州藩)で奇兵隊の反乱事件が起き、その思想的指導者と言われる大楽源太郎が逃れてきたのを応変隊幹部の古松簡二は匿ったが、翌4年正月、山口藩は建白書で「逆賊ノ根本ヲ痛断」することを要求する強い態度で臨んできた。山口藩は薩長閥の牛耳る中央政府と直結していたが、尊攘派と応変隊幹部は戦をも辞さない構えで藩を挙げた徹底抗戦、さらには国賊を排して朝廷を正すことまで求めたものの、政府と山口藩の厳しい追及により藩主へ累が及ぶことを懼れて大楽は殺害された。しかし事件は発覚し、関係者は捕えられて東京に護送され、藩主有馬頼咸は藩邸に30日の謹慎、思想指導者小河昌文は斬罪、古松らは終身禁固、他にも武士だけでなく庄屋や医師など大勢が禁固刑となった。(鈴木しづ子 1995)
- ^ 式には元応変隊隊長鹿野淳二も祝電を送るなど、同士的結合と藩への帰属意識は強固なものだった。(鈴木しづ子 1995)
- ^ 有馬育英会 沿革
- ^ 福岡県人会/会報(抜粋)/2008年05月号/01頁 郷土の先達(35)石井光次郎ー久留米が育んだ清廉の人ー
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
- ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1918年7月11日。
- ^ 有馬正賴『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 推定家督相続人廃除請求事件法律新聞データペース
参考文献
[編集]- 鈴木しづ子「士族授産の政治的側面について : 国営安積開墾における久留米および高知士族入植の事情」『行政社会論集』第8巻第1号、福島大学、1995年9月、47-88頁、CRID 1050845762459948416、hdl:10270/2694、ISSN 0916-1384。
- 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
- 後藤致人 『昭和天皇と近現代日本』(2003年) 所収『華族社会の展開と「宮中グループ」(明治における華族社会と士族社会―明治の「お家騒動」をめぐって―』
- 伊藤真希 『華族の家庭教育--有馬伯爵家を中心として』 (2009年)
外部リンク
[編集]- 有馬育英会 - 頼萬が初代総裁を務めた育英部の後身。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
伯爵 (久留米)有馬家初代 1884年 - 1927年 |
次代 有馬頼寧 |