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有馬頼永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
有馬 頼永
有馬頼永像(篠山神社蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 文政5年3月24日1822年5月15日
死没 弘化3年7月3日1846年8月24日
改名 弥作(幼名)→頼永、良山(法号)
別名 雲船、思眼斎、勤士斎
戒名 義源院殿
墓所 梅林寺久留米市
官位 従四位下、侍従、上総介、筑後守、贈従三位
幕府 江戸幕府
筑後久留米藩
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬頼徳、母:お綱(松檮院)
兄弟 美(牧野貞一室)、頼永亀井茲監、謳(前田慶寧室)、頼咸松平直克土屋寅直室、松平頼煕
正室:島津斉宣の十二女・晴姫
養子:頼咸
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有馬 頼永(ありま よりとう)は、筑後久留米藩の第10代藩主。久留米藩有馬家11代。

生涯

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文政5年(1822年)3月24日、第9代藩主・有馬頼徳の四男として生まれる[1]。文政9年(1826年)に世子に指名された。天保5年(1834年)に従四位下・侍従・上総介に叙位・任官される。天保13年(1842年)に筑後守に遷任された。幼少時から聡明で、特に西洋砲術に興味を示し、藩士にも奨励したといわれる。天保15年(1844年)、父の死去により家督を継いだ。

藩の財政難を再建するため、頼永は積極的な藩政改革に乗り出した。5年間の倹約による緊縮財政綱紀粛正、軍制の西洋近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有能な人材登用などがそれである。しかし改革を始めた矢先に尿血症腎臓結核)に倒れ、以後は病に倒れて改革を思うように推し進めることもできず、弘化3年(1846年)7月3日に死去した。享年25。跡を異母弟で養子の頼咸が継いだ。

暗愚な藩主が多かった久留米藩の中で、頼永だけは自ら藩政改革を推し進めたことにより、歴代藩主の中でも名君として評価されている。しかし在任2年で若死にしたために、改革の効果は現れることもなく、後継者の頼咸の代には彼が見出した人材がことごとく自滅していくことになる。

系譜

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脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 65頁。