服部嘉香
はっとり よしか 服部 嘉香 | |
生年月日 | 1886年4月4日 |
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没年月日 | 1975年5月10日(89歳没) |
本名 | 服部 嘉香 |
別名 | 浜二郎(幼名) 楠山 服部 嘉香(はっとり かこう) 文修院明徳嘉香日優居士(戒名)[1] |
出生地 | 日本東京市日本橋区浜町 |
学歴 | 早稲田大学文学科英文学科 |
職業 | 大学教授、詩人 |
活動内容 | 口語自由詩運動 |
父 | 服部嘉陳 |
母 | 服部むめ |
親族 | 藤野古白、正岡子規、正岡律 |
主な作品 | |
『幻影の花びら』(詩集) 『バレエへの招宴』(詩集) 『夜鹿集』(歌集) | |
服部 嘉香[2](はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。
生涯
[編集]東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた[2]。愛媛県士族・服部嘉陳の長男[2]。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。
1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される[3]。松山中学校[4]を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業[2]。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた[5]。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる[6]。1907年(明治40年)には横瀬夜雨らの詩草社に加わり、口語自由詩運動に力を注ぐ。
1913年(大正2年)に早稲田大学講師となり[7]英語、商業文、文学概論を講じた。1917年(大正6年)の早稲田騒動では「プロテスタンツ」(いわゆる恩賜館組)の一員として活動し、その結末を不服として大山郁夫、村岡典嗣、宮島綱男とともに早大を去った[8]。
1921年(大正10年)に宮島綱男の誘いを受けて[9]関西大学講師(のち教授)となり、英語、心理学、商業実践、修辞学など8科目を担当し、「八宗兼学」と呼ばれるほどの多忙な日々を送った[10][11]。1922年(大正11年)に関西大学学歌を作詞。1925年(大正14年)3月に関大教授を辞任し、東京に帰住する[12]。
1932年(昭和7年)に早稲田大学に復帰し[13]、1956年(昭和31年)に定年退職。その後は日本大学講師、梅光女学院短期大学教授などを務めた。1960年(昭和35年)に「日本書簡発生期の諸現象について ─日本書紀の本質とその発達の方向と特徴─」で文学博士の学位を取得。
人物
[編集]- 趣味は野球、歌舞伎、文楽人形の見物[2]、観劇、謡曲作詩作歌[14]。宗教は日蓮宗[2][14]。
- 詩歌界では1937年に窪田空穂に師事して「まひる野」会員となり、1950年に『詩世紀』を主宰刊行[15]。日本詩人クラブ理事長[16]、社団法人日本歌謡作家協会理事長[17]、国語問題協議会理事なども歴任した。
- 早稲田大学恩賜館3階の研究室では大山郁夫と相部屋になり、大正デモクラシーの思想的影響を少なからず受けた[18]。
家族・親族
[編集]- 服部家
愛媛県松山市、東京都
- 1895年 -
- 長男[2]
- 1919年 -
- 長女(栗原家を継ぐ)[2]
- 1914年 -
- 親戚
- 祖父・藤野正久(松山藩士、海南・嘉陳・漸の父)
- 叔父・藤野海南(松山藩士、修史局編修官)[21]
- 叔父・藤野漸(第五十二国立銀行頭取、能楽師)[22]
- 従兄・藤野古白(藤野漸の長男、俳人)[23]
- 遠戚・正岡子規(俳人)[24]
主な著作
[編集]著書
[編集]- 『現代作文教典』博愛館、1913年11月。
- 『最新商用文精義』同文館、1914年9月。
- 『ドンキホーテ物語』実業之日本社〈世界名著物語 第13編〉、1915年5月。
- 『書簡卓上便覧』早稲田大学出版部、1918年6月。
- 服部嘉香、植原路郎『新らしい言葉の字引』実業之日本社、1918年10月。
- 服部嘉香、植原路郎『新らしい言葉の字引』(訂正増補版)大空社〈近代用語の辞典集成 2〉、1994年11月。ISBN 9784872369328。
- 服部嘉香、植原路郎『新らしい言葉の字引』(大増補改版)大空社〈近代用語の辞典集成 3〉、1994年11月。ISBN 9784872369328。
- 『最新商業文範及書式』同文館、1920年10月。
- 『書簡卓上文範』早稲田大学出版部、1920年11月。
- 『現代作文教典』教文社、1921年4月。
- 『星が飛ぶ』研究社、1922年4月。
- 『最新文範作文教典』帝国講学会、1923年2月。
- 『創作童話 虹の橋まで』同文館、1923年2月。NDLJP:1169746。
- 『現代商業文精義』暸文堂、1925年11月。
- 『新時代の商業文範』早稲田大学出版部、1926年4月。
- 『新しい語原解釈の字引』実業之日本社、1926年12月。
- 『改稿・書簡卓上便覧』早稲田大学出版部、1928年3月。
- 『現代の書簡』誠文堂〈大日本百科全集〉、1928年11月。
- 『商業現代模範作文 第1』暸文堂、1930年12月。
- 『商業現代模範作文 第2』暸文堂、1930年12月。
- 『商業現代模範作文 第3』暸文堂、1930年12月。
- 『商業現代模範作文 第4』暸文堂、1930年12月。
- 『商業現代模範作文 第5』暸文堂、1930年12月。
- 『婦人書翰文範 附・新時代手紙常識』大日本雄弁会講談社、1932年4月。
- 『現代作文新講』早稲田大学出版部、1933年9月。
- 『実用作文講話 正しい国語国字のために』日本放送出版協会、1936年4月。
- 『仮名遣と送仮名 正しい使ひ方』早稲田大学出版部、1936年11月。
- 『実用新商業文』冨山房、1937年10月。
- 『新例手紙文範』早稲田大学出版部、1938年9月。
- 『新制自修作文』瞭文堂、1939年3月。
- 『商業作文の常識』千倉書房、1939年6月。
- 『国語・国字・文章』早稲田大学出版部、1941年9月。
- 『少国民手紙読本』正芽社〈正芽社少国民選書〉、1944年3月。
- 『商業文講話』千倉書房、1944年8月。
- 『当用書簡文作法』早稲田大学出版部、1949年3月。
- 『新時代の式辞と挨拶』あかね書房、1950年6月。
- 『文章の作り方』雄鶏社、1950年7月。
- 『服部嘉香抒情詩集 幻影の花びら』長谷川書房〈現代抒情詩選集 第2〉、1953年4月。
- 『商業作文の知識』中央経済社〈現代経済知識全集 49〉、1954年7月。
- 『詩世紀詩集 1(1955年版)』詩世紀の会、1955年8月。
- 『詩集 銹朱の影』昭森社、1955年10月。
- 『現代書簡文新講 新定書簡礼法と文例』早稲田大学出版部、1956年11月。
- 『随筆 早稲田の半世紀』中和出版、1957年6月。
- 『星雲分裂史 宇宙時代の予言詩として』鳥海青児画、昭森社、1958年4月。
- 『服部嘉香歌集 夜鹿集』春秋社〈まひる野叢書 第2編〉、1960年11月。
- 『口語詩小史 日本自由詩前史』昭森社、1963年12月。
- 『漢字・かなづかい・送りがな便覧』中和出版、1964年12月。
- 『新例実用手紙文範』梧桐書院、1966年10月。
- 『服部嘉香第四詩集 バレエへの招宴』新詩潮社、1967年11月。
- 日本近代詩論研究会・人見円吉編 編『日本近代詩論の研究 その資料と解説』角川書店、1972年3月。
- 日本近代詩論研究会編 編『昭和詩論の研究 その資料と解説』日本学術振興会、1974年1月。
- 『実際に用いられた式辞と挨拶』梧桐書院、1974年7月。
- 『新例実用手紙文範』(改訂版)梧桐書院、1977年1月。
論文
[編集]- 「国語国字問題の根本義 ――「国語白書」の批評を中心として――」『国文学研究』第3号、早稲田大学国文学会、1950年11月、110-122頁、NAID 120005480040。
- 「言霊観の真意義」『国文学研究』第9・10号、早稲田大学国文学会、1954年3月、55-70頁、NAID 120005480132。
- 「河竹繁俊著『人間坪内逍遥』 本間久雄著『坪内逍遥』」『国文学研究』第21号、早稲田大学国文学会、1960年2月、134-136頁、NAID 120005480283。
- 「万葉書簡の風格と文芸性」『国文学研究』第1号、梅光女学院大学国語国文学会、1965年11月、1-9頁、NAID 110000993170。
- 「「竹取物語」の女性性侍り文体と商業文」『国文学研究』第2号、梅光女学院大学国語国文学会、1966年11月、1-9頁、NAID 110000993178。
- 「「本朝文粋」の書簡群と人間性」『国文学研究』第3号、梅光女学院大学国語国文学会、1967年11月、1-12頁、NAID 110000993188。
- 「窪田空穂を描く言葉」『国文学研究』第37号、早稲田大学国文学会、1968年3月、122-126頁、NAID 120005480558。
- 「西鶴の人生観と教戒」『国文学研究』第4号、梅光女学院大学国語国文学会、1968年11月、81-86頁、NAID 110000993210。
- 「「明衡往来」の撰者・書名・内容・文体について」『国文学研究』第5号、梅光女学院大学国語国文学会、1969年11月、115-125頁、NAID 110000993229。
- 「文章から見た徳富蘆花の作品」『国文学研究』第6号、梅光女学院大学国語国文学会、1970年11月、105-115頁、NAID 110000993289。
- 「岡一男博士の学風」『国文学研究』第43号、早稲田大学国文学会、1971年1月、517-520頁、NAID 120005480642。
- 「平安書簡の遊戯、非遊戯」『国文学研究』第8号、梅光女学院大学国語国文学会、1972年11月、1-11頁、NAID 110000993252。
- 「三木露風の象徴味と宗教性」『国文学研究』第9号、梅光女学院大学国語国文学会、1973年11月、89-99頁、NAID 110000993274。
- 「子規と自然主義」『日本文学研究』第10号、梅光女学院大学日本文学会、1974年11月、77-82頁、NAID 110000993560。
作詞
[編集]区歌
[編集]- 『大新宿区の歌』(作曲:平岡均之、1949年3月15日制定)
校歌・学歌
[編集]- 『関西大学学歌』(作曲:山田耕筰、1922年9月)
- 『関西大学附属関西甲種商業学校校歌』(1923年)
- 『関西大学第一高等学校・第一中学校校歌』(作曲:山田耕筰、1961年11月2日)
- 『大阪商業大学学歌』(作曲:中村良之助)
- 『矢板市立片岡中学校校歌』(作曲:星出敏一)
- 『文京区立青柳小学校校歌』(作曲:井上武士)
- 『三鷹市立第二中学校校歌』(作曲:芥川也寸志、1957年)
- 『埼玉大学教育学部附属小学校校歌』(作曲:下総皖一)
- 『さいたま市立上木崎小学校校歌』(作曲:佐々木すぐる)
- 『川口市立元郷中学校校歌』(作曲:芥川也寸志、1959年)
- 『川口市立青木中学校校歌』(作曲:中田喜直)
- 『川口市立十二月田中学校校歌』(作曲:佐々木すぐる)
- 『川口市立上青木小学校校歌』(作曲:佐々木すぐる、1958年)
- 『川口市立並木小学校校歌』(作曲:佐々木すぐる、1955年)
- 『鴻巣市立鴻巣南小学校校歌』(作曲:下総皖一)
- 『北本市立中丸小学校校歌』(作曲:下総皖一)
- 『長野県阿智高等学校校歌』(作曲:井上武士)
流行歌
[編集]- 『雨の泣く日は』(作曲:藤井清水)
- 『夢見草』(作曲:藤井清水)
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 服部自身は「玄黄院嘉香日忙居士」(原稿院書かう日忙居士)を希望していた(『随筆 早稲田の半世紀』 119頁)。
- ^ a b c d e f g h i j 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』682-683頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年9月13日閲覧。
- ^ 松山市立子規記念博物館 『第21回特別企画展 子規の系族』 1990年、54頁
- ^ 服部は「夏目漱石の『坊ちゃん』の学校」と称した(『随筆 早稲田の半世紀』 9頁)。
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 11頁
- ^ 『明治文学全集61 明治詩人集 二』 筑摩書房、1975年、446頁
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 18頁
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 28-29頁
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 86-87頁
- ^ 『関西大学百年史』 人物編、344-345頁
- ^ 服部自身は「八宗兼不学」と称した(『随筆 早稲田の半世紀』 85-88頁)。
- ^ 早稲田騒動以来の盟友宮島綱男と仲たがいしたためといわれているが、服部自身は多くを語っていない(『関西大学百年史』 人物編、347頁)。
- ^ 『関西大学百年史』 人物編、347頁
- ^ a b 『人事興信録 第15版 下』ハ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年9月13日閲覧。
- ^ a b 『詩歌人名事典』 日外アソシエーツ、2002年、553頁
- ^ 一般社団法人日本詩人クラブ 歴代会長・理事長 2018年6月14日閲覧
- ^ 早稲田人名データベース 服部嘉香 2019年8月8日閲覧
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 18頁、23頁
- ^ 松山子規会 『松山子規事典』 2017年、218頁
- ^ 『随筆 早稲田の半世紀』 160頁
- ^ 愛媛県史編纂委員会 『愛媛県史 人物』 愛媛県、1989年、526頁
- ^ 愛媛県史編纂委員会 『愛媛県史 人物』 愛媛県、1989年、527頁
- ^ 愛媛県史編纂委員会 『愛媛県史 人物』 愛媛県、1989年、526-527頁
- ^ 『関西大学百年史』 人物編、343頁
参考文献
[編集]- 早稲田大学紳士録刊行会編 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』 早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編 『人事興信録 第15版 下』 人事興信所、1948年。
- 早稲田大学大学史編集所編 『早稲田大学百年史』 第二巻、早稲田大学出版部、1981年。
- 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 人物編、学校法人関西大学、1986年。