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木下宇三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木下 宇三郎
生誕 1865年11月15日
日本の旗 日本 肥後国菊池郡
(熊本県菊池市)
死没 (1946-01-27) 1946年1月27日(80歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1887年 - 1921年
最終階級 陸軍中将
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木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日慶応元年9月27日[1][2]〉- 1946年昭和21年〉1月27日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[1][3]

経歴

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肥後国菊池郡、現在の熊本県[注釈 1]菊池市[4]で木下居中の長男として生まれ、1903年(明治36年)1月に家督を相続した[1][5]

1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校旧9期を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官[2][3]1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(11期)に入学したが、日清戦争勃発のため退学し出征[6]1896年(明治29年)2月に復学し、1897年(明治30年)12月に卒業し参謀本部に配属された[6]日露戦争では第1軍作戦参謀として出征し、満洲軍が創設されると帰国し大本営陸軍部参謀を務めた[2]

以後、関東都督府参謀などを経て、1907年(明治40年)11月、砲兵大佐に進み陸軍野戦砲兵射撃学校長に就任[3]。野砲兵第24連隊長、第12師団参謀長を経て、1913年(大正2年)7月、陸軍少将に昇進し台湾総督府陸軍部参謀長となる[2][3]

野戦砲兵第2旅団長、陸軍砲工学校長、野砲兵監教育総監部附を経て、 1917年(大正6年)8月、陸軍中将に進み第12師団長に親補された[1][2][3]1921年(大正10年)7月、予備役に編入された[2][3]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』260頁では栃木県。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』き16頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』260頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』80頁。
  4. ^ a b 「原田律子」『言葉のゆりかご』416頁。
  5. ^ a b 『人事興信録 第8版』キ3頁。
  6. ^ a b 『日本陸海軍総合事典 第2版』548頁。
  7. ^ 「三邊長治」『人事興信録 第6版』人事興信所編、1921年、み15頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』1928年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
  • 井上智重『言葉のゆりかご - 熊本ゆかりの人物語録』熊本日日新聞社、2015年。