木村健康
木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 1973年12月7日[1])は、日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
経歴
[編集]会社員木村岩平の長男として[1]、福岡県早良郡鳥飼村(現福岡市)に生まれる。1925年福岡県中学修猷館[2]、1928年(昭和3年)旧制福岡高等学校文科甲類[3]を経て、1931年(昭和6年)3月東京帝国大學経済学部経済学科を卒業し[4]、同学部副手となり、1932年4月同学部助手となる[1]。
自由主義派(純理派)の河合栄治郎に師事し、大河内一男、安井琢磨と共に河合門下三羽烏と呼ばれたが、1938年(昭和13年)河合の筆禍から経済学部内での学派対立が激化し、翌1939年(昭和14年)東大総長の平賀譲による裁定(平賀粛学)により、河合が休職とされたことに抗議して、山田文雄教授らと共に辞表を提出し辞職。なお、後に大河内と安井は、河合に逆らって辞表を撤回し東大にとどまったため、河合はこの二人を破門しており、木村は河合が最も信頼する門下生となった。
その後、河合は軍の言論弾圧に対して法廷闘争を続けたが、木村は法廷で特別弁護人として河合を弁護し続けている。上智大学専門部、巣鴨高等商業學校、上智大学商経学部の講師を経て、1943年(昭和18年)5月第一高等学校教授となり[1]、経国(法制経済)を担当する。
1946年(昭和21年)1月東京大学経済学部助教授。同年11月に山田文雄らとともに社会思想研究会を設立[5]。1949年(昭和24年)5月同教授に就任し経済学史を担当。同年6月から1961年(昭和36年)3月まで、新制東京大学に新規に設置された教養学部の教授を兼務し、その間1952年(昭和27年)1月から1960年(昭和35年)9月まで同学部教養学科長を務め、東大教養学部の基礎を築いた(駒場出身の経済学者である村上泰亮、早坂忠は教養学科第一期生の門下)。1969年(昭和44年)3月定年退官、同年5月東京大学名誉教授の称号を受ける。同年4月成蹊大学経済学部の初代学部長に就任[1]。
1959年(昭和34年)7月、東京大学 経済学博士 博士論文は「厚生経済学序説」[6]。
1958年(昭和33年)、古谷弘との共編『近代経済学教室』により、毎日出版文化賞受賞。
エピソード
[編集]一高教授であった1945年4月、軍は一高のリベラルな自治寮制度を嫌い、文部省に命令して一高を廃学するように指示したが、当時の安倍能成校長を補佐し、木村が中心になって各寮に教授が一人ずつ泊まることによって、教授が管理しているという名目を作って廃学を免れている。
著書
[編集]単著
[編集]- 『若き人々とともに』白日書院, 1948年
- 『英国労働党』弘文堂, 1949
- 『青春と自由』中央公論社, 1950年
- 『学生生活』河出書房, 1954年
- 『経済学ノート』河出書房, 1955年
- 『信念としての民主主義』民主日本協会, 1955年
- 『厚生経済学序説』勁草書房, 1969年
- 『東大・嵐の中の四十年』春秋社, 1970年
- 『愛国心はと問われて』鱒書房, 1971年
- 『木村健康経済学ノートⅠ』勁草書房, 1972年
共著
[編集]訳書
[編集]- 『理論経済学の本質と主要内容』J.A.シュンペーター著(大野忠男・安井琢磨との共訳), 岩波文庫, 1943年
- 『経済成長の諸段階―一つの非共産主義宣言』W.W.ロストウ著(久保まち子・村上泰亮との共訳), ダイヤモンド社, 1965年
- 『自由論』J.S.ミル著(塩尻公明との共訳), 岩波文庫, 1971年
編書
[編集]共編書
[編集]- 『学問と教養――何をいかに学ぶべきか』(麻生磯次, 玉虫文一, 淡野安太郎との共編), 勁草書房, 1953年
- 『近代経済学教室Ⅰ~Ⅵ』(古屋弘, 大石泰彦との共編), 勁草書房, 1957, 69年
脚注
[編集]- ^ a b c d e 秦郁彦 2002.
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員18頁
- ^ 『福岡高等学校一覧 第19年度(自昭和15年4月至昭和16年3月)』(福岡高等学校編、1941年)157頁
- ^ 『東京帝国大学一覧(昭和5年度)』(東京帝国大学、1930年)學生生徒姓名531頁
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、357頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ 博士論文書誌データベース
門下
[編集]参考文献
[編集]- 『追想木村健康』, 木村健康先生追想録刊行委員会, 1989年
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。ISBN 978-4-13030-120-6。189頁