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木村充

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木村 充(きむら みつる 1939年(昭和14年)[1]4月3日[1][2][3] - 1998年[4](平成10年)5月1日[5])は、日本の栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」の陶芸家である[6]

益子焼の陶芸家である木村一郎の長女である滋子と結婚し[1][2]、木村家に婿養子として入り、義父である木村一郎に師事し[1][2]、木村一郎の逝去後に「木村窯」を2代目として引き継いだ[1][2][6][5]

生涯

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1939年(昭和14年昭和14年)4月3日[2][3]栃木県塩谷郡藤原町(現・日光市)に生まれる[6][1][5]

栃木県立今市高等学校を卒業後[3]鬼怒川温泉の元湯共同組合の専務を務めていたが、その一方でちゃんちゃんこを着て鬼怒川温泉街をふらついており「鬼怒川温泉の風来坊」と渾名されていた[6]

そんな時に、益子焼の陶芸家である木村一郎の長女・滋子との縁談が持ち込まれた[6]

婿に行って苦労するのは嫌だし、第一「焼き物に全く興味が無かった」ので即断った。ところがあちらこちらから滋子との縁談が持ち込まれてきた。そしてとうとう充から「結婚してから2、3年の間、遊んでもいいか?」と問い合わせて「それでもいい」という承諾を得られたため、木村家への婿入りを決断。1968年(昭和43年)に滋子と結婚[1][2][3]。こうして充は「木村窯」の2代目へ[1][2]の道へ足を踏み入れた[6]

そして「遊ぶ」と口にはしていたが、婿としての立場を考えたのか、少しずつ義父・一郎の作陶の手伝いをするようになっていき[6]、必然的に木村一郎の弟子となった[1][2]

29歳からの「焼き物」の手習いだったので、一歩一歩歩んでいった。「焼き物」について何も知らなかったので焦ってもいた。しかし義父・一郎は「頭でっかちになるぞ」と、陶芸の知識を頭に詰め込もうとする婿をたしなめた[6]

やがて充の作品が窯で焼かれ始めたが、今度は義父から「教え」や「助言」と言う名の注文が散々飛ぶようになってきた。しかし義父から助言を貰うも、技術が追いつかず、義父の意見に反発することもあった[6]

天才肌の陶芸家であった義父・一郎から見ると、婿の拙さが歯痒くて仕方なかったのでは、と後に婿・充は述懐した[6]

ところが1978年(昭和53年)8月21日、「焼き物」のやり方の伝授の途中で義父・一郎が亡くなってしまう。こうしてたった10年間の修行で、否が応でも「木村窯」2代目として[1]、そして陶芸家として自立していかなければならなくなってしまった[6]

それからは、義父・木村一郎が残した登り窯の気まぐれな炎と対峙しながら失敗を繰り返す日々。作品を一つ一つ轆轤で挽き、登り窯を焼くのは1年に2、3回が限度。しかも温度管理が難しく、そして作品の歩留まりはあまりにも低かった[7]。しかし、そうこうしているうちに「炎の神髄」がわかってくるようになってきて、自分らしい作品が生まれるようになってきた[6]

やがて「この家にやってきてよかった」と思えるようになってきて、自らの心が少しでも反映された器が作れれば幸せと思うようになり[2]、「まだまだ勉強中することが山ほどある」と数多くの作品を見ながら笑い飛ばせるようになってきた[6]

茶碗だからと肩肘を張らず、素朴に誠実に自然体のままで「焼き物」を作り[2]、茶を飲むも良し、飯を食べるのも良し、使う人が心豊かに楽しんで貰えるなら、どのように使っても自分は嬉しい[2]、という謙虚な心の持ち主であった[2]

1998年(平成10年)5月1日、享年59。肝臓ガンのため若くして逝去した[4][8][5]

それまで行われていた展覧会は、弟子の船越弘に引き継がれ、義父・一郎から引き継がれた窯は、充の息子であり、一郎の孫である木村充良に引き継がれた[4]

家族

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長男であり木村一郎の孫である、木村一郎の登り窯を受け継ぐ同じく益子焼の陶芸家である木村充良と[9][10][11][注釈 1]、同じく長女であり木村一郎の孫となる染色家である木村雅子がいる[11]

弟子

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脚注

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注釈

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  1. ^ 木村充良は自身の窯元の名称に「益子窯」を用いており[9]、「益子窯三代」と称した家族展を開いているが[11]、父・充は「木村窯」と称していた[12]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 最新現代陶芸作家事典,光芸出版 1987, p. 263.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 光芸出版編集部,日本茶の湯茶碗図鑑 1988, p. 554.
  3. ^ a b c d 室伏哲郎 1991, p. 523.
  4. ^ a b c d e 陶染 四人展|上野 利憲・木村 雅子・木村 充良・船越 弘”. 益子焼窯元共販センター (2015年8月1日). 2023年5月19日閲覧。
  5. ^ a b c d 下野新聞 1998年(平成10年)5月2日付 3面「木村 充氏」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 下野新聞社 1984, p. 51.
  7. ^ 「日本経済新聞」1995年(平成7年)5月27日付 地方経済面 栃木 42面「木村充作陶展」「登り窯独特の味」
  8. ^ 益子のこと”. 東京民藝協会ブログ (2017年2月13日). 2023年5月19日閲覧。
  9. ^ a b 下野新聞社 1999, p. 218.
  10. ^ きむら みつよし|益子焼 作家一覧|Mashiko-DB.net
  11. ^ a b c 「下野新聞」2006年(平成18年)8月25日付 28面「陶芸と染色150点 5人の作品並ぶ」「宇都宮で益子窯三代展」
  12. ^ 下野新聞社 1984, p. 133.
  13. ^ 〈ましこのごはん なす編〉陶壁から器に|器を作る人~船越弘さんの器~”. 益子町移住・定住ワンストップサイト ましこの暮らし (2018年7月27日). 2023年5月19日閲覧。

参考文献

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  • 下野新聞社『陶源境ましこ 益子の陶工 人と作品』1984年9月27日、51頁。 NCID BN1293471X国立国会図書館サーチR100000001-I25110924685 
  • 光芸出版編集部 編『最新 現代陶芸作家事典 作陶歴 技法と作風』株式会社光芸出版、1987年9月30日、263頁。ISBN 9784769400783 
  • 光芸出版編集部 編『日本茶の湯茶碗図鑑』株式会社 光芸出版、1988年8月20日、554頁。 NCID BN03215075国立国会図書館サーチR100000002-I000001941262 
  • 室伏哲郎『陶芸事典』株式会社日本美術出版、1991年12月1日、1003頁。ISBN 4-938376-09-1 
  • 木村一郎,(財)益子町観光振興公社 著、(財)益子町観光振興公社 編『木村一郎展』益子町文化のまちづくり実行委員会、1998年、63頁。 NCID BA77027885国立国会図書館サーチR100000002-I000002735852 
  • 下野新聞社『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日、239頁。ISBN 978-4882861096 

関連項目

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