本多政朝 (旗本)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和6年(1620年)[注釈 1] |
死没 | 寛文元年7月13日(1661年8月7日) |
改名 | 本多政相[1]→政朝 |
別名 | 帯刀[1] |
戒名 | 宗伯[1] |
墓所 | 東京都台東区西浅草の徳本寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多政重 |
兄弟 | 政次、政遂、政朝、戸田政勝、政長 |
妻 | 正室:三浦正次の娘[1] |
子 | 女子(小出吉直の妻)、女子(小出英陳の妻)、女子(細井智勝の妻)、政方、政法、女子(堀直行の妻)、女子(中川成慶の妻)[1] |
本多 政朝(ほんだ まさとも)は、江戸時代前期の旗本。加賀藩家老・本多政重の三男。親族の下野榎本藩主本多家が無嗣により断絶すると、その名跡を継ぐ形で幕臣に取り立てられ、5000石の大身旗本となった。通称は帯刀。
生涯
[編集]元和6年(1620年)[注釈 1]、加賀藩家老・本多政重の三男として生まれる[1]。
政重の弟・本多忠純は下野国榎本藩の藩主となり、2万8000石を領していた。政朝の兄・
将軍徳川家光は、榎本藩本多家の断絶を惜しみ[注釈 2]、政遂の弟である政朝がその名跡を継ぐこととなった。寛永19年(1642年)4月1日、政朝ははじめて徳川家光に拝謁した[1]。寛永20年(1643年)12月18日、下野国都賀郡内で5000石の知行地を与えられ、旗本寄合席に列した[1]。
慶安4年(1651年)5月13日、甲府城の守衛を命じられる[1]。寛文元年(1661年)7月13日死去、42歳[1]。浅草本願寺の徳本寺に葬られた[1]。徳本寺は本多政遂以来本多家の葬地となっていた寺である[2]。
系譜
[編集]『寛政重修諸家譜』には、2男5女が記されている。( ) 内は『寛政譜』の掲載順。女子については生母の記載がない。
- 正室:三浦正次の娘
- 生母不明の子女
- 女子(1) - 小出吉直の妻
- 女子(2) - 小出英陳の妻
- 女子(3) - 細井智勝の妻
- 女子(6) - 堀直行の妻
- 女子(7) - 中川成慶の妻
補足
[編集]- 政朝の没後、長男の政方が家督を継いだが、この際弟の政法に500石を分知して別家を立てさせた。その後、政法は政方の養子に迎えられ、500石は収公された。このため、政方以後の知行は4500石である。
- 『寛政譜』編纂時まで、この家は政朝―政方=政法=政淳―
政参 ―政寛=政房と続いた(―は実子、=は養子関係)。- 上記のうち、政朝(本多政重の子)のほか、政淳(本多政敏の子)、政房(本多政行の子)が加賀本多家からの養子である。
- 上記のうち4人(政朝・政淳・政参・政房)が「帯刀」を、2人(政法・政淳)が「弥兵衛」を通称としている。
- 政方は、正信・正純も名乗った「弥八郎」を通称としたが、この家ではその後用いられていない[注釈 3]。寛文4年(1664年)に本多正之(本多正純の二男)が赦免を受けて大身旗本(3000石)として復帰しており、正之の家の当主数人が「弥八郎」を用いている[3]。
- 上記のうち3人(政法・政淳・政房)が布衣以上となっている。本多政法は別家を立てていた際に書院番を務め、本家を継いだのちに御使番・定火消を務めた[1]。本多政淳は御使番・火事場見廻役を務めた[4]。本多政房は『寛政譜』編纂時点では布衣を許されていないが火事場見廻役・寄合肝煎を務めていることが記されており[4]、文化7年(1810年)には伏見奉行に任じられて文化11年(1814年)に没するまで在職した。政房は大隅守に叙された[5](かつての榎本藩主本多家のうち2代も大隅守に叙されている)。